November 04, 2006
アウシュヴィッツ・平和への祈り ?
私達がポーランドのクラコフを訪れた最も大きい理由。
それは、アウシュヴィッツ強制収容所跡への慰霊と見学を目的とするものであった。
午前8時、事前にチャーターしておいたロマンさんのタクシー(シルバーのベンツ)で小雨模様の中、ホテルを出発。
なだらかに広がる丘陵状の農地、幾つかの点在する小さな集落を通り過ぎ、緑濃い樹林帯を抜けて、ほぼ1時間。
広い草原のような所に幾棟かのレンガ造りの建物群が見えた。
既に数台の乗用車が駐車している場所にマロンさんもベンツを並べて駐めた。
ここで事前に説明をお願いしていた中谷 剛 氏と出会い、収容所を案内していただいた。
アウシュヴィッツというのはドイツ名で、ポーランドではオシフィエンチムと言う。
収容所の門には『ARBEIT MACHT FREI』 と掲げられている。
1939年の戦闘の後、オシフィエンチム市もドイツ第三帝国の領土となり、その際にナチスがアウシュヴィッツと名前を変更したのである。
1940年、ポーランド人政治犯を収容し、ポーランド人虐殺に利用するためナチス・ドイツが造ったのであるが、やがて全ヨーロッパのユダヤ人、ジプシー、それにソ連軍の捕虜も送り込むようになった。
だから強制的に収容、拘禁された囚人の国籍はヨーロッパ中に及び、南はギリシャ、北はノルウェーからの人々もおり、ポーランド人の他、チェコ人、ユーゴスラビア人、オーストリア人、フランス人、そしてドイツ人も含まれていた。
当初、アウシュヴィッツ収容所は14棟の1階建てと6棟の2階建てがあったが、やがて、囚人たちの労働力で全てを2階建てに改築し、8棟の建物を新築した。
それで収容施設が足りず、ブジェジンカ村にアウシュヴィッツ第2号、モノヴィツェ村にアウシュヴィッツ第3号、その他にも小さい収容所を40箇所もナチス・ドイツは囚人を働かせて造っていった。
高圧電流の流れる鉄条網に囲われた収容棟。
上はアウシュヴィッツ収容所1号
現在、アウシュヴィッツ1号の一部とブジェジンカの(アウシュヴィッツ2号)が見学出来る。
館内での写真撮影は遠慮してほしいと言われているが、悲惨な状況を想像すれば、とても写真を撮ろうという気が起こらなかった。
それは、アウシュヴィッツ強制収容所跡への慰霊と見学を目的とするものであった。
午前8時、事前にチャーターしておいたロマンさんのタクシー(シルバーのベンツ)で小雨模様の中、ホテルを出発。
なだらかに広がる丘陵状の農地、幾つかの点在する小さな集落を通り過ぎ、緑濃い樹林帯を抜けて、ほぼ1時間。
広い草原のような所に幾棟かのレンガ造りの建物群が見えた。
既に数台の乗用車が駐車している場所にマロンさんもベンツを並べて駐めた。
ここで事前に説明をお願いしていた中谷 剛 氏と出会い、収容所を案内していただいた。
アウシュヴィッツというのはドイツ名で、ポーランドではオシフィエンチムと言う。
収容所の門には『ARBEIT MACHT FREI』 と掲げられている。
1940年、ポーランド人政治犯を収容し、ポーランド人虐殺に利用するためナチス・ドイツが造ったのであるが、やがて全ヨーロッパのユダヤ人、ジプシー、それにソ連軍の捕虜も送り込むようになった。
だから強制的に収容、拘禁された囚人の国籍はヨーロッパ中に及び、南はギリシャ、北はノルウェーからの人々もおり、ポーランド人の他、チェコ人、ユーゴスラビア人、オーストリア人、フランス人、そしてドイツ人も含まれていた。
当初、アウシュヴィッツ収容所は14棟の1階建てと6棟の2階建てがあったが、やがて、囚人たちの労働力で全てを2階建てに改築し、8棟の建物を新築した。
それで収容施設が足りず、ブジェジンカ村にアウシュヴィッツ第2号、モノヴィツェ村にアウシュヴィッツ第3号、その他にも小さい収容所を40箇所もナチス・ドイツは囚人を働かせて造っていった。
高圧電流の流れる鉄条網に囲われた収容棟。
上はアウシュヴィッツ収容所1号
現在、アウシュヴィッツ1号の一部とブジェジンカの(アウシュヴィッツ2号)が見学出来る。
館内での写真撮影は遠慮してほしいと言われているが、悲惨な状況を想像すれば、とても写真を撮ろうという気が起こらなかった。
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