February 16, 2007

『鹿島』 7

体長が1m、体の太さが10cmもある長くて太い黒いモノが5寸釘を呑み込んで、ヌメヌメと光る体を8の字状にワイヤーに巻き付け、それが薄暗く狭い防波堤に上がってきたなら大抵の者は度肝を抜かすに違いない。

懐中電灯を最もソレに近い位置で照らした私が1歩後退った時、後ろにいた調査グループの面々は既に元来た方向に駆け出していたぐらいだ。

とにかく『気色悪い』としか形容の出来ない生き物だったのである。

昭和41年当時、小学校を『鹿島』で過ごした少年少女は『室尾』の中学校へ毎日ポンポン船の渡しに乗って通い、或る者は家業である漁業を手伝い、或る者は本土や四国の企業に就職し、高校に進学する者は音戸高校倉橋分校に通うか、音戸に下宿して本校に通うかであった。

春は巣立ちの時期、私達が調査を終えて2、3年後だったか、『週刊朝日』が『島の巣立ち』と題して、小船に乗って島を離れて行く若者たちの写真ページを構成していたことがあった。

下の写真は、瀬戸漁港から『鹿島大橋』を撮ったもので、右手が『鹿島』、建物は瀬戸漁港に面した地区の南側である。
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この『鹿島大橋』が架けられたのは昭和50年(1975年)のことであり、この橋が架けられたことによって、『鹿島』から『鹿老渡』更に『倉橋島』を経由して『呉市』とつながることとなり、広島県最南端の『離島』では無くなった。

この年、広島県立音戸高校倉橋分校が県立倉橋高校(平成18年・2006年に閉校)となり、自動車が『鹿島』に直接出入りすることが可能となって島の生活が大きく変わっていくこととなった。

昭和41年以前は現在に比して島外との交流は少なく、閉鎖的とも思える事例が数々あった。

選挙運動においては島丸抱えの所謂『ムラ選挙』であったし、娯楽が無いに等しい離島であったため、都会では想像出来ない風習が残ってもいた。
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上は現在の瀬戸漁港の写真であり、立派なエンジンを搭載した小型漁船が多く係留され、綺麗な海水の港内に魚の生簀も設置されている。

また港に面した集落の中には民宿業を営んでいるところが何軒かあり、『鹿島』周辺の潮流の激しい海域で獲れた美味しい魚の料理を食べさせている。


私は昭和41年に調査を終えて以降、昨秋は通算5度目の『鹿島』訪問であった。


昭和41年の5月、8月と2回。


その次が昭和53年か54年であったろうか、広島県下の学校数校で教育研究会が開催された折、当時広島の防衛施設庁にいた後輩の車で案内してもらったのが3回目。


『鹿島大橋』が架けられたことを知らなかった私は便利になったものだと懐かしい思いと、その変貌ぶりに驚いたものだった。


それから何年か後、広島大学(市内にあった頃)での学会終了後、橋が架かっていることも、調査の時に世話になった家が民宿を経営していることも知っていたので、思い立って鉄道、バス、タクシーを乗り継いで突然の訪問をしたことがあった。


その時には、『おかず調達係』であった中学生が広島で働いているとのことでいなかったが、世話していただいたご夫婦が健在で歓待していただいた。


丁度『天満屋』デパートの女性グループが泊りがけで魚を食べに来ていたこともあって、美味しい新鮮な魚料理とも相まって賑やかな宴になったことを記憶している。


そして昨秋が5回目の訪島となったのであるが、この時は呉市駅でレンタカーを借りて行ったのである。


倉橋島内の道路の整備が随分進み、鹿島島内でも瀬戸地区を回り込む立派な道路が出来ていたし、島の南端・宮の口の集落までの海岸道路も綺麗に整備され、道に沿って建つ家々も新しいものになっていたことなどに大きい驚きを感じた。


しかし、時期的なこともあったのだろうが、通りかかる人の姿は無く、いずれの民宿も寂れた感じであった。


以前世話になったお宅を尋ねたが、奥さんは殆ど寝たきりの状態、例の『おかず調達係』であった息子さんも先年亡くなられたとか。


時の流れを否応無く感じさせられた今回の訪島であった。

 








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