May 27, 2008
九州・大分、福岡~韓国へ 【15】豊後高田・元宮磨崖仏から真木大堂
富貴寺から少し車を走らせると元宮磨崖仏に出会える。
田染中村の交差点にあって、駐車スペースのある場所とは向かい合う位置に元宮磨崖仏はある。
地名が田染であることから六郷のひとつの田染であることが分かるし、この元宮磨崖仏の他にも夕日・朝日観音や大門坊磨崖仏などもあるのだが、駐車場と時間の関係で訪れる場所を絞らざるを得なかった。
元宮磨崖仏は上の写真の通りであるが、雨水からの保護のため覆い屋根がかけられている。
元の状態では無いが、少しでも長く保存するためには致し方の無いことであろう。
もっとも、日本の『文化財保存』に関する調査や技術に関しては失敗例も無いでは無い。
最近では奈良県・飛鳥の高松塚古墳の壁画の保存での失敗があるし、やや古く戦前のことになるが、1910年代の頃、韓国・慶州の仏国寺にある石窟庵の巨大な石仏の保存も失敗の例である。
石窟庵の石仏については周囲が部分的に崩壊していたりしたためセメントによる人工的天蓋を設けたりしたらしいが、セメントから出る炭酸ガスによって御影石造りの石仏坐像が損傷を受けたり、流水径路を変えることで自然に湿度管理されていたバランスを壊したりと、現在はガラス張りにして湿度を一定に保つように為されてはいるが、かなり好い加減な土木工事まがいの保存工事を施してメチャクチャにしていたらしい。
もっとも、そうした失敗があったからこそ現代の保存技術へ発展的に継承されてきている面があるとは考えるが・・・
これらの写真は、いずれも部分拡大であり、磨崖仏が不動明王であることが分かる。
この元宮磨崖仏を右手に見ながら真っ直ぐに進むと右手に真木大堂がある。
真木大堂は、最も隆盛を極めた頃の六郷満山65ケ寺のうち36坊の霊場を有した馬城山伝乗寺のことであり、奈良時代(養老年間)に仁聞菩薩によって開かれた後、平安時代の浄土信仰が栄えた当時は七堂伽藍を備えた大寺院であったらしい。
しかし700年前に火災で焼失、その後も衰退して、私が訪れた時は寺務所と修復工事のためにか完全に工事用パネルで覆い尽くされた本堂があるだけの小さな寺であった。
安置されているはずの仏像(藤原時代・木造)は寺に無く、拝観料を徴収する寺務所も閉じられており、残念と言うか何とも淋しい思いがした。
宇佐市の風土記の丘にある歴史博物館に仏像は保管されているらしいが、今回はこれら仏像との面会は果たせなかった。
せめて真木大堂のパンフレットの写真より
上の写真は大威徳明王像(藤原時代・木造・1.3m)
白牛に乗って火焔光背を背負う忿怒の形相には畏敬の念を禁じ得ないものがある。
下は、阿弥陀如来坐像の頭部。
藤原時代の作で木造、2.2m。
残念だが再来を期して国東半島最大の熊野磨崖仏へ向かうことにした。
田染中村の交差点にあって、駐車スペースのある場所とは向かい合う位置に元宮磨崖仏はある。
地名が田染であることから六郷のひとつの田染であることが分かるし、この元宮磨崖仏の他にも夕日・朝日観音や大門坊磨崖仏などもあるのだが、駐車場と時間の関係で訪れる場所を絞らざるを得なかった。
元宮磨崖仏は上の写真の通りであるが、雨水からの保護のため覆い屋根がかけられている。
元の状態では無いが、少しでも長く保存するためには致し方の無いことであろう。
もっとも、日本の『文化財保存』に関する調査や技術に関しては失敗例も無いでは無い。
最近では奈良県・飛鳥の高松塚古墳の壁画の保存での失敗があるし、やや古く戦前のことになるが、1910年代の頃、韓国・慶州の仏国寺にある石窟庵の巨大な石仏の保存も失敗の例である。
石窟庵の石仏については周囲が部分的に崩壊していたりしたためセメントによる人工的天蓋を設けたりしたらしいが、セメントから出る炭酸ガスによって御影石造りの石仏坐像が損傷を受けたり、流水径路を変えることで自然に湿度管理されていたバランスを壊したりと、現在はガラス張りにして湿度を一定に保つように為されてはいるが、かなり好い加減な土木工事まがいの保存工事を施してメチャクチャにしていたらしい。
もっとも、そうした失敗があったからこそ現代の保存技術へ発展的に継承されてきている面があるとは考えるが・・・
これらの写真は、いずれも部分拡大であり、磨崖仏が不動明王であることが分かる。
この元宮磨崖仏を右手に見ながら真っ直ぐに進むと右手に真木大堂がある。
真木大堂は、最も隆盛を極めた頃の六郷満山65ケ寺のうち36坊の霊場を有した馬城山伝乗寺のことであり、奈良時代(養老年間)に仁聞菩薩によって開かれた後、平安時代の浄土信仰が栄えた当時は七堂伽藍を備えた大寺院であったらしい。
しかし700年前に火災で焼失、その後も衰退して、私が訪れた時は寺務所と修復工事のためにか完全に工事用パネルで覆い尽くされた本堂があるだけの小さな寺であった。
安置されているはずの仏像(藤原時代・木造)は寺に無く、拝観料を徴収する寺務所も閉じられており、残念と言うか何とも淋しい思いがした。
宇佐市の風土記の丘にある歴史博物館に仏像は保管されているらしいが、今回はこれら仏像との面会は果たせなかった。
せめて真木大堂のパンフレットの写真より
上の写真は大威徳明王像(藤原時代・木造・1.3m)
白牛に乗って火焔光背を背負う忿怒の形相には畏敬の念を禁じ得ないものがある。
下は、阿弥陀如来坐像の頭部。
藤原時代の作で木造、2.2m。
残念だが再来を期して国東半島最大の熊野磨崖仏へ向かうことにした。
at 10:37│