October 22, 2008

九州への旅・・・6 平戸を巡る(1)

団体客の朝は早く、私達がレストランに入る時には彼らが出発のためにロビーに集まっていた時であった。

このあたりも個人で旅行する者は自由で気楽なのである。

『旗松亭』の朝食も最近の日本の旅館が殆ど取り入れているヴァイキング方式であり、お膳を部屋へ運んでくれた頃が懐かしいが、経営上の様々な要素を考え合わせればヴァイキング方式も分からなくはない。 止む無しか。

しかし、日本に於いて『巨人・大鵬・玉子焼』ではないが、『ご飯・味噌汁・玉子焼(生でも可)』・・・私の『三種の神器』が揃わないと朝食を食べた気分にならないのである。

外国での朝食には必ず玉子が付く。 生卵は言えばくれるが、通常はスクランブル、ボイルのいずれかが並べられ、コックが食事時間帯にレストランの一角で焼いてくれるところも多い。

日本の場合、ゆで卵、スクランブル、玉子焼が多く、生卵を置くところが少なくなってきた。 これは日本食を好み、玉子かけご飯の好きな私にとって残念なことである。

『旗松亭』の場合、品数は結構あったのだが玉子焼とスクランブル・エッグだけで、この玉子焼というのが甘くてお菓子のような代物。 玉子焼の甘いのは私は好かん。せめて温泉玉子か、ゆで卵だったらと玉子に関しては私の好みには合わんかった。

ほうれん草とコンニャクの和え物があったが、これも甘くて・・・むむむ。

ご飯大好きの私は結局チリメンジャコと大根おろし、味噌汁、それにアゴ(トビウオ)の干物で食事を終えた。

8時半になって展望風呂に浸かりに行ったが、団体客が出発した後で広い湯船を一人占めにし、小雨煙る平戸城や平戸大橋を眺めながら朝湯をノンビリと楽しんだ。 ここの温泉は湯から上がると肌がツルツルするようで気持ちが良いのである。

雨がひどくなっていたが10時にホテルを出発。

『旗松亭』からの急坂を海岸通りに出たところにオランダ商館跡、オランダ埠頭跡など建物などは現存しないが石塀や石組みの遺構が保存されている。

15世紀から17世紀は『大航海時代』と言われる新大陸、新航路の発見時代でヨーロッパの大国は盛んに船を出しており、1550年には平戸の地にポルトガル船がやってきている。

この年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島より平戸にきて1ヶ月ばかり滞在してもいるらしい。

平戸にオランダの商館が建てられたのは1609年のことであり、1613年にはイギリスの商館も設置されているように江戸幕府が鎖国政策を実施した1639年までの平戸は外国との貿易港として賑やかであったようだ。
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写真中央奥の尖塔がフランシスコ・ザビエル記念教会で手前には仏教寺院があり、異なる宗教施設が一枚の写真に収まるといのも珍しい光景である。

しかし、江戸幕府が鎖国政策を実施して以来、キリシタン大名が多くいた九州にあって処刑された人々は数知れず殉教の遺跡も多い。 また幕藩体制の弾圧のもとでも改宗せず強い信仰心を持った人々は『隠れキリシタン』として密かに信仰を続けたが、そうした史跡・資料がこの平戸をはじめ九州各地には多く残っている。

平戸も歴史的に辿れば中国や朝鮮との交流が更に古くからあり、魏志の倭人伝に出て来る末盧(まつら)国は現在の松浦・・・佐賀県北部から長崎県にかけての地域で平戸も含む・・・であり、中世、鎌倉時代の武士団・松浦党(まつらとう)は水軍としても勇名を馳せ、元寇の役での佐志氏の活躍などは小説でも取り上げられている。 

平戸の瀬戸に面する丘陵上に最初に城を構えた松浦鎮信(まつらしげのぶ)も松浦党の領袖の一人であるが、彼は豊臣秀吉の朝鮮侵略に参戦後、壱岐、松浦の領主となり、商館を建ててオランダ船を招くなど平戸の礎を築いた人物である。
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写真は平戸城の天守閣であるが遺構をもとに復元されたものである。

規模としては小さい城であるが、当初、松浦鎮信が日の岳城として築いたが、関が原の戦以後、徳川家康との対決を避けて城を炎上消滅させたらしい。

やがて、1702年の元禄15年に天祥松浦鎮信(29代)が幕府に願い出て山鹿素行の軍学により築城を開始し、14年の歳月をかけて完成したが、やがて1871年(明治4年)の廃藩置県で城が解体された後、1962年(昭和37年)に復元され、現在の天守閣は3代目ということになる。
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上は天守閣よりの眺め(北側)であるが、ノロノロ台風が鹿児島あたりを通過するということで天守への雨の吹き降りが激しく、写真右手の平戸の瀬戸は白い波頭が無数に立っていた。

写真中央は入り江になっており、右端に出張っている部分が『常燈の鼻』と呼ばれる昔の灯台、そこから左の白い建物の間あたりにオランダ商館や、石塀、井戸などの遺構が残っている。

私達が宿泊した『旗松亭』が写真中央の小高い位置にある建物で、松浦氏の城が無かった当時の『御館』が写真中央の丘陵の左端あたりの位置になる。

この『御館』は現在『松浦史料博物館』として松浦家に伝わる品々を展示し観覧に供している。

随筆『甲子夜話』の作者・松浦静山は江戸後期の平戸藩主であった。

平戸の町自体は小さいところであり、晴れていればノンビリ歩いて回っても良かったのだが、台風による雨風が時々強くなったりしていたので自動車で急ぎ巡ることにした。


at 15:10│
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