November 19, 2008

九州への旅・・・9 長崎・雲仙への道で

長崎市営・松が枝駐車場を出庫して雲仙へ向かうには国道34号線を走らねばならないのだが、右折レーンに入れなかったりカーナビの案内がイマイチであったため市街地をグルグル。

結局、オランダ坂トンネルを抜けて一部開通している長崎道に入り、諫早ICから国道57号線で橘湾の千々石に出た。

少々遠回りになったかもしれないが、一部区間とはいえ高速走行できたので時間的には多少は早かったかもしれない。

知人に長崎県千々石出身のH氏がいたが、彼は故郷千々石の海の景色を誉め、コップ酒を汲み交わす私に是非訪ねてほしいと機会あるごとに語っていた。

その彼の郷土自慢は千々石の海岸に止まらず、大阪・長崎県人会のメンバーでミナミの中央軒(チャンポンで有名)の社長のこと、そして時代は遡るが日露戦争時、静岡歩兵第三十四聯隊の大隊長として首山堡の激戦を指揮して戦死した橘中佐のことにまで及ぶ。

と言って彼が右翼主義者でも戦争肯定・推進の軍国主義者でもないのだが、橘中佐が千々石出身で、後に軍神として崇められ郷土には橘神社まで造営されていることからH氏にとっては郷土の偉人として幼い頃より刷り込まれてきた結果であろう。

そうした経緯もあって、前回長崎を訪れた折にはタクシーの運転手氏に千々石に立ち寄ってもらったのであった。

今回は自分でハンドルを握り、千々石の浜で橘中佐の名前を出したが家内は「誰?その人」。

普通はそのようなもので、特別、日露戦争に興味を持っている人で無い限り知っているひとは稀だと思う。

私の場合は何故知っていたのか・・・千々石出身のH氏との出会いは、かれこれ30年近く前になるが、それ以前に橘中佐のことを知った機会が何時どこで、どうして知ったのか記憶にない。

だが10年ばかり前に司馬遼太郎の『坂の上の雲』を呼んだ時に、遼陽会戦の項で橘中佐戦死の記述があったのは覚えている。

あらためて見直してみたところ、戦死の詳細についての記述は無かったが、遼陽会戦における標高97メートルばかりの首山を西端とする東西の線で防御を張るクロパトキン将軍率いるロシア軍と日本軍の首山堡攻防の大激戦の詳細について書かれてあった。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、幕末から明治にかけて薩長土肥閥には属さなかった四国・松山藩の下級武士の子どもとして生まれた正岡子規秋山兄弟が欧米列強と肩を並べるために近代化を進める明治時代において、それぞれが力一杯に生き抜いて行く人生を描きあげた力作である。

正岡子規は俳人として名を知られているので説明は要らない。

秋山兄弟の兄・好古(よしふる)は大阪師範、陸士、陸大(第一期)卒業後フランスへ留学、騎兵戦術を学び日本陸軍に西洋式騎兵を創設・育成。
日露戦争においては世界に名だたるコサック騎兵を撃滅、敵陣を大いに撹乱し、『日本騎兵の父』と称される人物。

後、近衛師団長、陸軍大将、陸軍教育総監を歴任。

弟の真之(さねゆき)は、親友の正岡子規の上京に刺激されて松山の中学を中退して上京。兄・好古の援助を受けながら大学予備門(後の第一高等学校)を卒業後、経済的事由から海軍兵学校へ進学、首席で卒業後に海軍へ。
正岡子規は東京帝国大学文学部へ進学。

その後、真之はアメリカへ留学し海戦兵術の理論研究を行い、日露戦争では兄・好古は陸軍、秋山騎兵旅団長として、真之は連合艦隊旗艦「三笠」に乗艦し、司令長官・東郷平八郎の下で作戦参謀となり、「敵艦見ゆ」の信号を受信してバルチック艦隊撃滅の指揮を執った。

日本海戦時の下の信号文は有名であるが、秋山真之の作文である。

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ

皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ

正岡子規とは特別に親交のあった秋山真之であり、文学的な素養でも優秀であったのであろう。短い文での的確な表現にはそうした卓越した能力が見て取れる。

随分の横道になってしまった。

千々石・木場から雲仙への道もあったが、他の車の1台もそちらへ入る車がいそうに無かったので私も長い車列に続いて小浜温泉経由(雲仙西登山口)で雲仙温泉まで登ることにした。

しかし、トロトロトロと、先頭に観光バスが走っており、それが長--い車の行列を作っている。平地走行でこの調子じゃ上り坂になれば一体・・・

雲仙温泉までの上り坂は長いのだ。


at 06:41│
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