November 29, 2008

九州への旅・・・15 長崎・南島原『原城跡』

島原の城下を離れて国道251号線を南へ走ると雲仙東登山口を過ぎたあたりから国道57号線の高架道路が251号線の海側を走るようになる。

この道路からは1791年(寛政3年)に起きたShimabara Catastropheと呼ばれる『寛政の大変』で有名な眉山を右端に平成新山、普賢岳が眺められ、平成新山から流れ落ちた土石流の跡が扇状地として広がっている様子の全体を見渡すことが出来る。

『寛政の大変』というのは、当初、島原の群発地震から普賢岳の火山活動に移り島原半島全体が揺れるもので、やがて普賢岳から島原の方へ地割れが発生、その後に眉山が大崩落を始め、土石流が島原の町を埋め、更に有明海へ流れ込んだ土砂は津波を起こして対岸の肥後・熊本をも襲ったというものである。

これを『島原大変肥後迷惑』と呼んでいるが、平成新山の場合は当初11989年(昭和64年)の普賢岳西方の橘湾における群発地震に始まり、1990年(平成2年)からの火山活動で翌1991年(平成3年)のドーム形成となった。

『寛政大変』から平成新山まで丁度200年。地震学者ならずとも火山活動の周期に関心が向くのは当然であろう。(これ一例だけなら偶然とも言えるが)

国道57号線の高架部分はさして長くはなく、直ぐに251号線になるのだが島原湾に沿って走る道路は混雑することもなくスムースに走ることができた。

やがて南島原市を走るようになるが、1616年に奈良・五条藩より松倉重政が島原へ来て島原城を築くまで当地の日野江城が島原藩の政庁所在地であった。
5d5779c0.jpg

南島原市役所から少し南の原城温泉の案内板を過ぎると直ぐ左手に原城跡の案内板があるが、注意していないと見過ごしてしまうほどの大きさであり、左折するための道路も農道程度、その行く先も農地が認められるだけで特段の目標物もない。

農道(アスファルトの簡易舗装)をグルグル周るように走り、小高い丘の上に上がったところに駐車場(未舗装)があり、上の写真はそこから眺めたもので背の高い山が平成新山。

原城は1496年(明応5年)に先の日野江城の支城として有馬貴純(有馬晴信の五代前の当主)によって築かれた城らしいが、現在は有明海(島原湾)に面する丘陵上に石垣遺構と駐車場横に空堀遺構を残すのみである。

下の写真は駐車場位置から本ノ丸への道であるが、石垣の石積み角度はなだらかであり、積まれた石も大小取り混ぜで石積みの為の成形は余り為されていないように見受けられた。
85ee7d5b.jpg

原城と言えば『島原の乱』、『島原の乱』と言えば原城と、日本史を学んだ者なら誰しもが思い浮かべる言葉である。

1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島来て以後、一般の人々だけでなくキリシタン大名と呼ばれる者たちの数も増えてきたことは既に書いてきた。

九州では1563年には大村純忠が受洗してキリシタン大名となり、以後、大友宗麟、有馬晴信、小西行長などが続き、島原には神学校も出来るなど肥前(長崎・島原)・肥後(天草諸島)のキリスト教信徒数は相当な数に上った。

やがて関が原の戦(1600年)の後に徳川家康は江戸に幕府を開き(1603年)徳川政権を固め始め、戦の論功行賞として寺沢志摩守広高に天草4万石と合わせた唐津藩12万石を与えた。

その後1616年、大坂攻め(冬の陣1614年・夏の陣1615年)に功績のあった奈良・五條藩主・松倉豊後守重政を有馬氏の旧領である島原4万石の領主に任じた。

松倉重政が島原藩主として国入りした時の藩政庁は現在の南島原市にあった日野江城だが、1618年から6年をかけて1624年に島原城が完成し、一国一城制によって日野江城も原城も廃城にしたと伝えられている。
949de2fd.jpg

写真は原城跡の国指定史跡の案内表示板だが、新村 出博士の歌が書かれていた。(ちょっとオドロキ)

幕府が松倉重政を島原藩主に封じたのは単に論功行賞というだけのことではなかったはずである。 

これには徳川幕政が安定化の方向を辿り始めていたとはいえ、九州には外様大名が多く、徳川譜代の大名と言えば現在の福岡県では小倉藩、小倉新田藩、大分県では中津藩、杵築藩、府内藩(大分市)の3藩、佐賀県では唐津藩、宮崎県では延岡藩だけであり、長崎県や大分県の直轄領を除けば島原藩を加えても徳川譜代大名領地の石高は50万石程度であるのに対し、外様大名である黒田家の福岡藩(478000石)、秋月藩(50000石)、東蓮寺藩(40000石)と福岡県だけで50万石を上回り、肥後・熊本藩だけで54万石、薩摩藩の島津だけで77万石、これに九州諸藩を加えれば外様大名の総石高は300万石にも上り、ひとたび外様大名たちが結束すれば、すり鉢の底にあるちっぽけな島原藩など即座に潰されてしまうような存在。そのため松倉重政は外様大名の監視役と同時に防御面を考慮して僅か4万石には似合わぬ不釣合いな島原城を築いたのではないだろうか。築城については幕府の許可が必要だったはずであり、当然幕府の意図することが伝えられていたと想像するのだが。

島原城に話が飛んでしまったが、『島原の乱』を考える際、その起因の1つとして島原城築城を無視することは出来ない。

また、資料によれば4万石の島原藩に対して幕府は6万石と設定していたらしい。一説には松倉重政が江戸城の公儀普請の際に分不相応な10万石の割普請を求めたためともあるが、各大名を支配する上で幕府の石高設定は実質石高以上に設定していたとの説もある。

当時の税収は玄米であり、武士達の俸給も玄米で算定支給されていた。そして米というものは品種が改良されない限り、一定地で一定量しか収穫出来ないものである。

つまり、台風・旱魃などの天候不順や病虫害などの理由によって凶作となり収量が減ることがあっても増えることは無いのである。

それなのに4万石を6万石とし、或いは築城による負担が加味されたとすれば収量が一定であるものを増量させるには年貢率を高めるしかなく、それはそのまま農民たちの生活を困窮化させることとなり、これは悪政と言う以外にはない。

悪政について付け加えれば、資料の請売りではあるが『蓑踊り』というものが島原ではあったらしい。

1634年から1637年(『島原の乱』は1637~1638年)の頃はひどい凶作に見舞われ、不作の上に年貢が厳しく島原の農民は困窮の極みにあった。その為に年貢を納めることの出来ない者たちが捕えられゴザで体を簀巻きにされて火をかけられた。熱さのあまり狂わんばかりに暴れのたうち焼け死んでいったと。その姿が蓑を着けて踊っているように見えたので『蓑踊り』と呼んだのだそうな。

見せしめとして行ったようだが全く残忍極まりないことである。

同じく見せしめとして、キリシタン弾圧の為に捕えたキリシタンを雲仙地獄へ連れて行き、火山の噴気孔に放り込むという極悪非道なことをやっておったとも。

これだけの条件が揃えば百姓一揆として『島原の乱』にまで発展しても納得がいくことと思う。

次ページでも引き続き『島原の乱』について触れてみたい。


at 13:55│
記事検索
月別アーカイブ