November 30, 2008

九州への旅・・・16 原城跡と島原の乱

小高い丘の上の『原城跡』。

北に雲仙の山並みを、東側眼下には有明海(島原湾)を、周囲にはのどかな田園風景を眺めることのできる『原城本の丸跡』。

1637年12月から翌1638年4月まで行われた『島原の乱』での最後の戦場となった『原城跡』。

この城跡に籠城して戦い死んだ人たち、その後、この地で処刑された人たち、その数老若男女合わせて3万7000人と聞く。

あまりに犠牲者の数が多いため、この地を掘って埋葬したと言う。

下の写真は有明海(島原湾)を望む位置に建てられた十字架の碑である。
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『島原の乱』は前ページで書いてきたように島原4万石・松倉重政と跡を継いだ松倉勝家の厳しい年貢の取り立てとキリスト教徒弾圧という圧政に、その発生要因があったと結論づけることができる『島原の乱』について厳しい年貢の取り立てが原因であったと肥後・細川家の古文書『細川家記』にもあるらしい。

松倉豊後守重政は、大和の戦国大名・筒井順慶の家老・松倉重信の長男である。

筒井順慶というのは、豊臣秀吉が明智光秀を追討の折、光秀が順慶に対して援軍の催促に洞ヶ峠(ほらがとうげ)まで向かったが、その去就をなかなか明確にしなかったことから『洞ヶ峠の日和見』としても知られているが、戦国の世にあって秀でた教養人でもあったと言われている。

『洞ヶ峠』というのは現在の大阪府枚方市の辺りで国道1号線が通り、淀川を挟んで天王山を眺望できる位置にあり、古来交通の要衝でもある。

松倉重政の父・重信は右近とも呼ばれ、島左近とともに筒井順慶の両翼『右近左近』と呼ばれるほどの智者であった。

そして、この松倉重政も決して愚者ではなく、大和・五條藩主の頃には紀州街道にある五條の商業と交通発展の基礎作りを行った人物ではあるのだが、これは決して島原の悪政を免罪できるものではない。

『島原の乱』の発端は、南島原でキリスト教の布教活動をしていた者が捕らえられ、彼らは当然処刑されたものと思い込んだ家族らが追悼の儀式を行おうと集まっていたところへ2人の代官がやってきて話し合いとなったが、その過程で代官が『デウスの絵』を破き燃やしたことに激昂した農民が1人の代官を叩き殺してしまったことにあるらしい。

この時の代官の一人が事を島原の城へ伝え、一方農民たちも代官を殺してしまったのだからタダでは済まぬと思った。

前ページでも『これだけの条件が揃えば百姓一揆として『島原の乱』にまで発展しても納得がいく』と書いたように、飢饉が続く中、餓死者が続出するほどの状況下で厳しい年貢の取り立てが行われ、年貢を納められない者たちを『蓑踊り』と称して生きている人間を丸焼きにし、住民の半数以上にのぼるキリシタンに改宗を迫り、応じない者たちを雲仙地獄の噴気孔に投げ込むなどの松倉勝家の圧政のもとで二進も三進も行かなくなった農民たちは結束、一揆を起こす方向に進み出した。

当初、島原藩は一揆のリーダーたちを討ち取ったようだが、一揆の火は消えるどころか有馬村から島原一帯へと広がり、島原藩も一揆鎮圧のために島原城の兵の大軍を差し向けたものの征圧できず、逆に島原城を攻められるに至った。

この動きに呼応したのかどうか知らないが、唐津藩の飛び地である島原の対岸・天草においても唐津藩の軍勢が大挙やってきたことに対して農民たちの怒りが一揆の様相を帯びて広がっていった。
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この天草と島原の合同一揆である『島原の乱』の一揆側の総大将が益田四郎時貞(天草四郎時貞)である。

上は天草四郎の像で原城跡に建てられており、作者は北村西望。

肥後・天草諸島は肥前・唐津藩の飛び地である。

肥前・唐津藩の初代藩主は寺沢志摩守広高で関ヶ原の戦の論功行賞として天草4万石と唐津を領有することとなり、唐津城を築いた。

この築城についても島原の松倉重政と同様であるが、その負担が唐津や天草の人々に掛けられた点で、また、天草でのキリスト教弾圧を厳しく行ったことでも島原と同様であった。

『島原の乱』が起きた当時は寺沢広高に代わって息子の寺沢堅高が藩主を務めていたが、彼が送り込んだ1500名ばかりの軍勢は火に油を注ぐようなもので、圧倒的多数の農民達によって逆に天草・富岡城に籠城せざるを得ない状況に陥ってしまった。

こうした島原・天草の一揆は幕府にも伝えられ、幕府からは板倉重昌を派遣、肥後・細川や肥前・鍋島に援軍を依頼して鎮圧行動に出た。

この情報により島原城攻めの一揆農民集団と天草・富岡城攻めの一揆農民集団が合流して原城跡に立て籠もり幕府軍と決戦を挑むことになるのだが、この一連の農民一揆を『島原の乱』と呼んでいるのである。

板倉重昌が率いる800名の他、幕府・鎮圧軍は松倉の島原藩、広沢の唐津藩に援軍の鍋島・佐賀藩、細川の熊本藩であるが、原城を攻め落とせないばかりか、逆に一揆勢に手ひどい負けを喫するような戦況が続き、幕府は威信と面目をかけ老中・松平伊豆守信綱を総大将とする12万もの大軍勢を原城跡攻略に差し向けた。

これには松平信綱率いる1500名に加えて九州各藩よりの軍勢に広島・福山藩も参戦するという江戸開府以来初めての大軍編成となった。

徳川幕府も3代将軍・家光の世となり、徳川家安泰、幕藩体勢安定化のためには早急に一揆を武力鎮圧することは最重要事項であったわけで、家光の側近中の側近、老中・松平信綱を派遣したこともその証しと言える。

松平信綱が参戦する前段で板倉重昌が討ち死にしているが、信綱は籠城する島原・天草の一揆農民勢約37000名に対し兵糧攻めを行い、海上からはオランダ船に砲撃をさせたり、側衆、忍者などを使い緻密な作戦を展開した上で総攻撃を開始し、原城(跡)を陥落させた。
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上は天草四郎時貞の墓碑であり、彼は原城攻防戦の折に自害し、その首は幕府軍によって城門に晒されたと言われるが、この時、彼は16歳か17歳。

私としては全く不憫でならない。

クリスチャンとしての彼が何を思って死に赴いたか・・・

権力の犠牲になるのは昔も今も変わらない。

だが、『島原の乱』の後、島原藩主・松倉勝家は斬首、天草の領主であった唐津藩の寺沢堅高は天草領を没収され自害。天草領については再度検地が行われるなどして年貢が42000石から21000石へ半減されるなど幕府としての処分が下されていった。

幕府にとっては面目も威信も辛うじて保てたかもしれないが、松倉にしても寺沢にしても一国一城の主(藩主)と言えど所詮中間管理職。

彼らの所行が免罪出来ないものであることは既に指摘しているが、彼ら藩主を封じてきたのは幕府であり将軍である。

現代と似通っているが、彼らは武力で統一を図った言うなれば独裁者としての権力者であるから、自らを自らの手で律さねば律する者もいない。

しかし、現代日本はどうであろうか。

お役人への風当たりが強いが、世のお役人の管理者は市町村長、知事、そして中央では大臣、その大臣の任免権を有しているのは総理大臣であり、彼らは武力で現在の立場を得たのではなく曲がりなりにも法律に基づいて民主的に選ばれた者たちである。

第一線で働く公務員に不都合なことがあるならば当然それらの業務・人事を管理する最高責任者である市町村長、知事、或いは大臣、総理大臣が責任を感じなければならない。が、どうもオカシイのが多い。

自分で職務を放棄するのと責任を感じて辞職するのとは意味が違う。

しかし考えてみればオカシイ連中を選出しているのは自分たちであるということを私達は忘れてしまっているのではないだろうか。

地縁、血縁、人気など、シガラミやテレビで名前を売ったという一時の話題性に左右されて選挙しているということがないだろうか。 

『島原の乱』は悲惨な階級社会における歴史的事実である。

現代日本は格差社会であると表現は異なれど階級社会と同じことである。

首長を選び、地方・国会議員を選ぶ主権者が私たちであることを思い起こさねばならないと原城跡を訪れて感じたものだった。


at 17:18│
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