December 11, 2008

九州への旅・・・30 臼杵から四国へ

のんびりと巡った九州北部から中部にかけての旅行もいよいよ終わりに近付いてきた。

一人で旅行する、これはこれで楽しいものがある。 が、夫婦2人での旅行、これはこれで又楽しいものである。

一概に『旅』と言ってもひと括りにできるものではなく様々である。

もっとも『旅』という言葉の定義から始めねばならないが・・・

広辞苑(新村 出・編)によれば、『旅』を【住む土地を離れて、一時他の土地へに行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて「たび」と言った。】とし、『旅行』については【徒歩または交通機関によって、おもに観光・慰安などの目的で、他の地方に行くこと。たびをすること。たび。】としている。

『旅』『旅行』という言葉は、一時的であれ長期であれ住む土地を離れて他の土地へ行くことを指す言葉として古来より用いられてきた。

ただ、古きにおいて“住居を離れることをすべて「たび」”と言ったということについては一時的に住む土地を離れて他の土地へと言う条件では、人が動き移動することの全てを含めてしまうので表現としては曖昧さが残る。

極端に言えば買い物のために30分ばかり電車に乗ってデパートへ行くことでも一時的に住居を離れることになるので、これも「たび」をしたと言えるのかということになるのだが・・・まあ、これは屁理屈の類いではあるが、「日帰り旅行」などと称するものもあり、英語でも「day trip」と言う。
7ff6393e.jpg

臼杵港へ入港してきた宇和島海運のフェリー。

「day trip」は「excursion」とも言うが、学校での遠足とはチョット違う使い方をしてるなあ。

つまり、小旅行と言えるようなものでも距離的、日数的なことで、その『旅』の表現は異なるし、その他『旅』の規模(距離、日数、費用、人数)や目的(観光、研修、視察、慰安)、移動手段(徒歩、鉄道、飛行機、車、船など)などによっても表現は変わる。

英語でも使い分けをしているが、日本語で旅行の意味に該当する言葉「excursion」「trip」「journey」「travel」「tour」「voyage」」「pilgrimage」「expedition]」「cruise」「exploration」など、思いつく言葉が幾つかある。もっとも、私は2つの言葉を使い分けしているだけだが・・・

「trip」と「travel」だけ。 つまり短い旅行の場合はトリップ、少し長い旅行はトラベルと。
9ad489ca.jpg

臼杵港でフェリーは後部ハッチ(正しくは何と呼ぶか知らない)を開けて航送車両の乗降をさせるが、四国・八幡浜港では前部の舳先部分を開いて航送車両の乗降をさせた。

『旅』を上述のように定義すれば、人類が地上に出現した時点で既に『旅』するという行動が始まっていたと言える。

食料を求める行動、つまり定住せずに生活を支えるため行う日々の移動、これは『旅』であったと言えよう。

やがて定住生活を始めた人類にあっても、その勢力の拡大には『旅』が伴ったであろうし、そうした脅威から逃れるにも『旅』するという行動が必要であったはずである。
97838dc2.jpg

フェリーは臼杵港のフェリー埠頭を離れて港外へ、海路を四国・八幡浜港へ向かう。

初期の人類は食料を携帯しない徒歩の『旅』が主であったろうが、やがて食料を携帯し、陸上では動物を利用した『旅』となり、水上では葦や丸太を利用した『旅』となっていったであろう。

更に車輪のついた牛車や馬車などによって移動人数も移動距離も増す『旅』へと発展していったことであろう。

きっと、その『旅』の目的も変化し、大きく広がってきたに違いない。

大阪に生まれ育った私には“いなか”(両親の実家のある所)というものが田舎になかった(両親ともに実家は大阪のど真ん中)ため、友人達と同じように“いなか”=田舎へ連れて行って欲しいと両親にせがんだものだった。

今にして思えば両親も困っていたのであろうと思う。

六甲・芦屋の叔母の家や大和・御所の従兄弟の家などへ連れて行ってくれたが、私の旅行という意味では小学校の修学旅行での伊勢行きが最初のものであった。

たったの一泊旅行であったが、何もかも友人達と共に行動したことが最大にして最高の喜びであり、そして思い出でもあり、神社も自然景観も二の次であって、この修学旅行の目的は友人達と楽しい時間を過ごすということに終始したように記憶している。
5c11d1d6.jpg

フェリーは佐賀関の関崎と高島を見て、いよいよ速吸瀬戸(豊予海峡)に入ろうとしている。 写真左手の島が高島で、右手に伸びている陸地が佐田岬半島である。

この海峡付近で獲られ、左手の大分・佐賀関に水揚げされたモノが関アジ、関サバとして、右手の愛媛・佐田岬の三崎漁港へ揚げられたモノが岬アジ(はなアジ)・岬サバ(はなサバ)として市場に出るのである。

潮の干満の差によって太平洋から瀬戸内海へ、そして瀬戸内海から太平洋へと流れる豊予海峡の潮流は速く、その潮の流れに揉まれた魚は身が引き締まり美味とされ、1匹のサバに何千円もの値段が付く。

広域流通が可能となった現代ゆえに高値が付くようになったが、昭和20年代や30年代には、こうしたブランドものなど無かったのだが、これが良いのか悪いのか。

地元振興という観点からは素晴らしいことだが、サバもアジも庶民の魚であったはずなのだが・・・
fd79ff75.jpg

フェリーは、いよいよ佐田岬の根元に位置する八幡浜港に入港しようとしている。

先ほどの話に戻すが、私が『旅』を意識した最初の旅行は中学1年生の夏休みのことであった。

随分以前に少し触れたことがあったが、当時既に大学生であり、私の従兄弟であり、私の兄のような存在であったYが山陽本線を走る汽車で広島を観光し、小郡から阿武郡阿東町の叔父の家へ、そして秋吉台、秋芳洞と案内して回ってくれた数日にわたる旅行であった。

広島に原爆が落とされて10年ばかり。 50年間は草木が生えないと言われていた広島であるが、それでも広島駅前には赤茶けたトタン屋根のバラックが建ち並び、旧式の路面電車が荒れた町をガタゴト走る。 植えられて間もないような木がポツリポツリと立つだけで日かげもなく照り返しばかりで眩しく暑い平和公園を歩きながら戦争についてYが語ってくれた。

原子が何であるか、核分裂がどうして起こるか、放射能とは・・・工学が専門であるYの話は分かりやすくストンと腹に落ちる。
6623a96b.jpg

フェリーは2時間25分で八幡浜港のフェリー埠頭に接岸。

開かれた船首部分から下船した先頭の車に続いて私の車も続く。

山口の叔父は石灰石の採掘とセメント製造の工場を経営していたが、秋芳洞を巡り秋吉台を歩くことによって、セメントの原料である石灰岩の山とセメント製造工場が同じ場所にあるという生きた社会科学習をさせてもらえた。

この広島と言い山口と言い、この時の私の『旅』に後付けながら目的を与えてくれたのである。

つまり『旅』というものは、それを終えてから、その『旅』の過程で経験し学んだことが自らの血肉になるという面と、何らかの目的を持ち、それを達成するための手段としての『旅』があるということである。

は知らないが無目的、無感動という『旅』もあるかもしれない。

この山陽への『旅』以来、私の『旅』には必ず目的があり、『旅』を終えてからの財産は有形無形計り知れないものとなって身に付いてきた。

今回の家内と2人での九州への旅行も満足のうちに終え、帰宅してからも更にもっと知りたいという欲求を掻き立ててくれるものがあり、『旅』というものが人間に対してあらゆる面で与えてくれる無限とも言える効果の大きさに今更ながら感じ入っているのである。

四国・八幡浜に上陸してから若干の寄り道をしたが、夜の四国道を松山から坂出、そして瀬戸大橋を渡り大阪へ戻ってきた。

手暇な時間に駆け足で旅行記を仕上げたために書き足りなかった部分もあるし、写真にしても主要な部分をピックアップしただけなので私の思いを全て書いたわけではないが、これにて一応の完了としておきたい。

旅行中いろいろとお世話になった方たちにはこのブログページでお礼を申し上げることとしたい。



at 05:44│
記事検索
月別アーカイブ