December 23, 2009
博多・禅寺・・・秋色【4】 崇福寺の(1)
聖福寺の参詣を終え、幻住庵から西教寺を経て西門橋渡って県庁方面に歩いて行った。
地下鉄・箱崎線の千代駅付近、このあたりは市民体育館に東公園、県庁や県議会、県警本部、市営千代住宅、それに九大医学部と附属病院などがあるため普段は人通りの多い所なのだが日曜日の朝ということもあって人通りはまばらであった。
福岡県議会棟の直ぐ北側に案内しようとする崇福寺がある。
下の写真は崇福寺の山門で、扁額には後嵯峨天皇より賜った『西都法窟』の文字。
山門前の大きい碑には『勅賜萬年崇福禅寺』と寺名が刻まれている。
崇福寺は1240年(仁治元年)大宰府に 随乗坊湛慧 によって創建され、翌年、湛慧(たんえ)の要請によって宋から帰国した円爾(えんに・聖一国師)が開堂して寺名をつけた。
円爾(聖一国師)は1241年(仁治2年)に帰国し、 博多で先に紹介した承天禅寺、後に京都で東福寺をも開山している。
崇福寺は臨済宗大徳寺派・横岳山崇福寺と言い福岡藩主黒田家の菩提寺のひとつでもあるが、1586年(天正14年)島津氏と大友氏の間でおこなわれた岩屋城の戦いで焼け、1600年(慶長5年)に福岡藩の初代藩主・黒田長政によって現在の場所に移された。
この山門は福岡城本丸の表門(重文)を移設したもの。
下は再興された塔頭・心宗庵。
写真の碑には『大燈国師塔所』と彫られているのだが、大燈国師とは花園天皇が帰投依伏した宗峰妙超のこと。京都・紫野にある龍寶山大徳禅寺(大徳寺)は妙超が建てた禅堂・大徳庵を起源とし、開基は宗峰妙超である。
そして、塔所とは一般に遺骨(遺灰など)を納め祀る場所を指すので、『大燈国師塔所』と記されているということは大燈国師の墓ということになるのだが、妙超臨終の地が太宰府であったのかどうか・・・、それに妙超の亡骸をどのようにしたのか私は知らないし、妙超と崇福寺の関わりについても分からない。
つまり、大燈国師の墓が何故崇福寺の心宗庵にあるのか疑問が残っているのである。
どうでもいいと言えばどうでもいいことなのだが、物事には曖昧にしておいた方が良いこともあるけれど、疑問を残し抱えたままでいることが苦となることの方が多い。これも性分なのかもしれないが、大徳寺の塔頭には一級上の先輩がいるので問うてみることにしよう。
上は鐘楼。
ところで宗教と文化の関わりというのはなかなかオモシロイものであり、仏教に限らず、ヒンドゥー、キリスト、イスレムなどの宗教の広まりと文化諸般の伝播には密接な関わりがある。
衣食住はもとより、それらに係る学問、技術は勿論のこと国家観や道徳・思想にまで影響を及ぼしてきた。
隋や唐への公式使節に続いて宋への学僧たちの渡海も多く、栄西は宋より臨済宗を、道元は曹洞宗を日本に伝えた。また、宋から来た禅僧たちもいる。
座禅を組み自己を直視することを通して仏の教えを体得するという禅宗はそれまでの密教(空海の真言宗、最澄の天台宗)とは若干違ったものであった。
1253年(建長5年)鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼が創建した鎌倉五山の巨福山建長興国禅寺(建長寺)の開山は南宋の禅師・蘭渓道隆であった。
この蘭渓道隆に師事し、宋に渡って修行を行い帰国してからは建長寺に戻り、1272年(文永9年)から崇福寺の住持を務めたのが南浦紹明(なんぽしょうみょう・円通大応国師)。彼は後に後宇多上皇の招聘により京都・万寿寺に入った後、鎌倉・建長寺の住持となった。
この南浦紹明に師事したのが大徳寺の開基・宗峰妙超(大燈国師)であり、いずれも臨済宗の寺院であることから大燈国師の塔所が崇福寺にあっても全く不思議とまでは言えないが、やはり気になる。
上は衆香園の額が掛かる旧書院。庫裏は右手にある。
前掲の宗峰妙超が死期を迎えた折に、彼に帰依していた花園天皇は後の師を誰にすれば良いか問うたところ、妙超は彼の門下・関山慧玄(かんざんえげん)を推したという。
関山慧玄は後醍醐天皇に仏法を説いた人であるが、花園法皇が離宮を禅寺として妙心寺(正法山妙心禅寺)を開基した折、その開山となった。
日本の臨済宗は南浦紹明(大応国師)・宗峰妙超(大灯国師)・関山慧玄(無相大師)と続く仏法伝承を『応灯関』と呼び、修行を重んじる禅宗の教義を受け継いでいる。
ただ少し気になるのは権力との結び付き。 崇福寺にしろ大徳寺や妙心寺にしろ、天皇、幕府、有力武将の庇護と寄進を得て寺院の安定を保ち且つ寺勢の強大化につなげてきた。 これにはちょっと眉根を寄せざるを得ない。
個々に修行する禅僧は別にして宗派という集まりになれば変わらざるを得ない面もあるのかもしれないが、本来座禅という修行を通して個人の本性を見得して悟りを得るという臨済禅のあり方からすれば・・・
これは崇福寺の案内と直接的に関わることでもないのでこの辺で終わりにしておこう。
門外漢の雀の千声程度にしてもらいたい。 御免
上は方丈の前にある唐門。
この唐門も移築されたもので、元々は名島城にあったものである。
名島城跡については以前にも書いているが、城は1500年代の中頃に立花山城主・立花鑑載が築いた出城で当時は大友氏の領地であった。
豊後の大友氏と薩摩の島津氏の争いに、九州平定を考えていた豊臣秀吉が島津征討の後、小早川隆景を筑前国主に任じ、隆景が名島城を海城として大改修を行った。
その後、関ヶ原の戦を経て筑前に領地を得た黒田長政が豊前・中津城から名島城に移ったが城地が狭いことから福岡に城と町を築いた。 その際に名島城の門を崇福寺に移設したのである。
崇福寺の(2)に続く
地下鉄・箱崎線の千代駅付近、このあたりは市民体育館に東公園、県庁や県議会、県警本部、市営千代住宅、それに九大医学部と附属病院などがあるため普段は人通りの多い所なのだが日曜日の朝ということもあって人通りはまばらであった。
福岡県議会棟の直ぐ北側に案内しようとする崇福寺がある。
下の写真は崇福寺の山門で、扁額には後嵯峨天皇より賜った『西都法窟』の文字。
山門前の大きい碑には『勅賜萬年崇福禅寺』と寺名が刻まれている。
崇福寺は1240年(仁治元年)大宰府に 随乗坊湛慧 によって創建され、翌年、湛慧(たんえ)の要請によって宋から帰国した円爾(えんに・聖一国師)が開堂して寺名をつけた。
円爾(聖一国師)は1241年(仁治2年)に帰国し、 博多で先に紹介した承天禅寺、後に京都で東福寺をも開山している。
崇福寺は臨済宗大徳寺派・横岳山崇福寺と言い福岡藩主黒田家の菩提寺のひとつでもあるが、1586年(天正14年)島津氏と大友氏の間でおこなわれた岩屋城の戦いで焼け、1600年(慶長5年)に福岡藩の初代藩主・黒田長政によって現在の場所に移された。
この山門は福岡城本丸の表門(重文)を移設したもの。
下は再興された塔頭・心宗庵。
写真の碑には『大燈国師塔所』と彫られているのだが、大燈国師とは花園天皇が帰投依伏した宗峰妙超のこと。京都・紫野にある龍寶山大徳禅寺(大徳寺)は妙超が建てた禅堂・大徳庵を起源とし、開基は宗峰妙超である。
そして、塔所とは一般に遺骨(遺灰など)を納め祀る場所を指すので、『大燈国師塔所』と記されているということは大燈国師の墓ということになるのだが、妙超臨終の地が太宰府であったのかどうか・・・、それに妙超の亡骸をどのようにしたのか私は知らないし、妙超と崇福寺の関わりについても分からない。
つまり、大燈国師の墓が何故崇福寺の心宗庵にあるのか疑問が残っているのである。
どうでもいいと言えばどうでもいいことなのだが、物事には曖昧にしておいた方が良いこともあるけれど、疑問を残し抱えたままでいることが苦となることの方が多い。これも性分なのかもしれないが、大徳寺の塔頭には一級上の先輩がいるので問うてみることにしよう。
上は鐘楼。
ところで宗教と文化の関わりというのはなかなかオモシロイものであり、仏教に限らず、ヒンドゥー、キリスト、イスレムなどの宗教の広まりと文化諸般の伝播には密接な関わりがある。
衣食住はもとより、それらに係る学問、技術は勿論のこと国家観や道徳・思想にまで影響を及ぼしてきた。
隋や唐への公式使節に続いて宋への学僧たちの渡海も多く、栄西は宋より臨済宗を、道元は曹洞宗を日本に伝えた。また、宋から来た禅僧たちもいる。
座禅を組み自己を直視することを通して仏の教えを体得するという禅宗はそれまでの密教(空海の真言宗、最澄の天台宗)とは若干違ったものであった。
1253年(建長5年)鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼が創建した鎌倉五山の巨福山建長興国禅寺(建長寺)の開山は南宋の禅師・蘭渓道隆であった。
この蘭渓道隆に師事し、宋に渡って修行を行い帰国してからは建長寺に戻り、1272年(文永9年)から崇福寺の住持を務めたのが南浦紹明(なんぽしょうみょう・円通大応国師)。彼は後に後宇多上皇の招聘により京都・万寿寺に入った後、鎌倉・建長寺の住持となった。
この南浦紹明に師事したのが大徳寺の開基・宗峰妙超(大燈国師)であり、いずれも臨済宗の寺院であることから大燈国師の塔所が崇福寺にあっても全く不思議とまでは言えないが、やはり気になる。
上は衆香園の額が掛かる旧書院。庫裏は右手にある。
前掲の宗峰妙超が死期を迎えた折に、彼に帰依していた花園天皇は後の師を誰にすれば良いか問うたところ、妙超は彼の門下・関山慧玄(かんざんえげん)を推したという。
関山慧玄は後醍醐天皇に仏法を説いた人であるが、花園法皇が離宮を禅寺として妙心寺(正法山妙心禅寺)を開基した折、その開山となった。
日本の臨済宗は南浦紹明(大応国師)・宗峰妙超(大灯国師)・関山慧玄(無相大師)と続く仏法伝承を『応灯関』と呼び、修行を重んじる禅宗の教義を受け継いでいる。
ただ少し気になるのは権力との結び付き。 崇福寺にしろ大徳寺や妙心寺にしろ、天皇、幕府、有力武将の庇護と寄進を得て寺院の安定を保ち且つ寺勢の強大化につなげてきた。 これにはちょっと眉根を寄せざるを得ない。
個々に修行する禅僧は別にして宗派という集まりになれば変わらざるを得ない面もあるのかもしれないが、本来座禅という修行を通して個人の本性を見得して悟りを得るという臨済禅のあり方からすれば・・・
これは崇福寺の案内と直接的に関わることでもないのでこの辺で終わりにしておこう。
門外漢の雀の千声程度にしてもらいたい。 御免
上は方丈の前にある唐門。
この唐門も移築されたもので、元々は名島城にあったものである。
名島城跡については以前にも書いているが、城は1500年代の中頃に立花山城主・立花鑑載が築いた出城で当時は大友氏の領地であった。
豊後の大友氏と薩摩の島津氏の争いに、九州平定を考えていた豊臣秀吉が島津征討の後、小早川隆景を筑前国主に任じ、隆景が名島城を海城として大改修を行った。
その後、関ヶ原の戦を経て筑前に領地を得た黒田長政が豊前・中津城から名島城に移ったが城地が狭いことから福岡に城と町を築いた。 その際に名島城の門を崇福寺に移設したのである。
崇福寺の(2)に続く
at 15:40│