December 26, 2009

『博多・・・秋色』は、少し休憩 12/24 (1)

12月24日、クリスマス・イブである。

キリストの降誕祭前夜であり、クリスチャンにとってはクリスマス当日とともに大切な日である。

日本人にとっては?

信仰者であれ信仰者で無かれ、恐らく日本人の100%が何らかの形でクリスマスに関わっているのではと思う。

江戸時代にキリスト教禁圧のため毎年行われた宗旨人別改によって領民一人一人が全て仏教に帰依していることを檀那寺が証明するという制度を採ってきたため日本人は全ていずれかの仏門に属していた。(幕末に長崎などで隠れキリシタンを表明した人たちが一部にいたので仏門に属すことが実際に個人の信仰を証明したものではない。)

形式的には、仏教は日本の国教であったと言える。

そうした日本でキリスト教の行事であるクリスマスが何故国民的行事であるかの如く広まり浸透してきたのか、それもいつごろから。

全ての疑問に応えてくれたわけではないが、日本クリスマス博物館というページがあったので紹介しておこう。

歴史年表形式に事象をピックアップしているので流れを掌握するには便利かもしれない。

個々にクリスマスを祝ったりプレゼントを交換したりということは大正期の頃にもあったようだが、広く全国的にということではやはり戦後の経済産業の復興から自立へと転じた昭和20年代後半以降からというのが当たっているように思う。

熱心なカトリック信徒から、「信仰者でない日本人が何故?」と厳しい問い掛けを受けたことがあるが、これには明確な返答ができなかった。

一神教であるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などを信仰する人たちにとって、八百万の神どころか「神様仏様」と何もかもゴチャマゼにするかのような信心は信仰とは認められない曖昧なものなのかもしれない。

しかし、これは日本人の寛容・寛大さを示すものであると主張する人たちもおり、宗教性や国民性など、それらの成り立ちについての研究書も多い。が、ここでは触れないでおく。

いずれも一理ありと思う私も曖昧なのかもしれない。

いいではないか、曖昧でもと。 

最近とみにそう思うようになってきた。



※ 曖昧にというのは、確かではなく、はっきりしないという意味で用いており、無責任、適当、好い加減という意味とは異なるので念のため。

at 10:52│
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