December 30, 2009

宮地嶽神社 (2)

宮地嶽神社の裏手にある宮地嶽に登る道筋に『奥の宮八社めぐり』という巡拝路がある。

この奥の宮八社をひとつひとつ参拝してまわれば大願が叶うと言われているので私も参詣することにした。

が、別に願い事をするために巡ったのではない。

困った時の神頼みなどという言葉もあるが、一方的に神仏に願い事をしたり、或いは何かを行うから祈願成就をと引き換え条件を示したりして寺社に参拝するというのが日本人の参拝スタイルに多い。

こうしたスタイルの参拝も、その対象となっといる神仏より授かる利益・加護を信じて行われている以上、それも信仰のひとつの形態であろうとは思う。

私は宗教の存することや信仰することを否定しないし、積極・消極に関わらず何宗と枠をはめることも無いが、私も信仰心は持っており、絶対的且つ広大無辺なる神仏の将に人智を超えた力には崇敬の念を抱いている。

ただ、宗教というものに対して下賎な言い方ではあるが好きか嫌いかとか、人々が共存共生していく上で良いものかどうかという判断は自分なりの基準で行ってはいる。
5bd8dd77.jpg

宮地嶽神社の本殿に向かって右手の回廊を潜って本殿を斜め後ろから見た写真である。

『奥の宮八社めぐり』は、ここから始まる。

登りの坂道が続くが道は下の写真のように整備されていた。
13062c04.jpg

『奥の宮八社めぐり』は、七福神社、稲荷神社、不動神社、万地蔵尊、淡島神社、濡髪大明神、三宝荒神、薬師神社の八社を言い、宮地嶽神社に戻って巡拝完了ということになる。

下は大塚稲荷神社の石額が掛かった鳥居。
aaf6b787.jpg

七福神社と言っても広い境内があるわけでも大きい社殿があるわけでもなく、小屋のような祠があるだけである。

七福とは恵比須、大黒天、布袋、福禄寿、毘沙門天、弁財天、そして寿老人の七福神のことである。
d4408206.jpg

朝の光を透過した紅葉がきれいだったので一枚。

お稲荷さんの赤い鳥居には奥之院稲荷神社の額が掛けられていた。

06d5f450.jpg

京都の伏見稲荷大社とは比べようもないほどに小さな稲荷神社であるが、赤い鳥居が幾本も並んでいた。

稲荷はもともと稲生と書かれていたらしいが、稲の束を肩に荷うことから稲荷と表わすようになったとか。これは知らなかった。

下は不動神社への向かう参道。
eed78a39.jpg

不動神社において不動明王が祀られているのは宮地嶽古墳の横穴式石室の中。

今から200年ばかり前、江戸時代の中頃に山崩れがあり、その時に古墳の石室が発見され、ここに不動尊が祀られたということである。

下の写真でこんもりと木が茂っているあたりが石室の上部で、左手に写っている屋根が参拝所。その参拝所のあたりが羨道部分だったのであろうか、不動明王が祀られている更に奥にも空間があったので、そちらが石室なのかと推量した。
242e09cc.jpg

宮地嶽古墳は直径34m、高さ5mで築造年代は明確ではないが古墳時代後期の円墳とされている。

昭和初期に古墳周辺で金銅装頭椎太刀(こんどうよそおいかぶつちのたち)のほか、金銅鞍金具や金銅壷鐙などの馬具類や金銅透彫龍文冠の破片やガラス玉などが多く出土し、全て国宝に指定されている。

また、古墳近くで火葬墓が発見され銅壷や瑠璃壷も出土し国宝の指定を受けている。

宮地嶽古墳の出土品などから高市皇子(たけちのみこ・天武天皇の第一皇子)の母である尼子娘(あまこのいらつめ)の父・胸方君徳善(むなかたのきみとくぜん)の墓であろうと考えられている。

また、先の銅壷や瑠璃壷などの骨蔵器は8世紀前半のものであることから尼子娘のものであろうとされている。

横穴式の石室は中国でうまれ高句麗(朝鮮)で完成し、百済(朝鮮)を経て福岡や唐津など九州北部に伝わっているが、この地域へは4世紀後半から5世紀初めに伝わり他の地域に比べて随分早く、宮地嶽古墳が宮地嶽神社より更に高い地にあり、石室に組まれている礫岩が玄界灘に面した津屋崎の海岸の岩石を切り取って運ばれていることなども考え合わせると、当時の九州北部を支配していた勢力や、大和政権或いは朝鮮との関わりなど大いに興味を覚える。

この宮地嶽古墳と連なるように福津市の台地には胸方君の一族の墳墓と考えられている国の史跡・津屋崎古墳群がある。

円墳、方墳、前方後円墳など5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳が点在しているらしく日を改めて訪れてみたいと思った。


at 11:00│
記事検索
月別アーカイブ