May 29, 2010

タイの遺跡を訪ねる (25) ロッブリー 【続き】

オランダの脅威を受けたアユタヤ王朝のナーラーイ王がフランスに協力を要請してアユタヤの副都としてロッブリーの町を建設したことを前ページで書いた。
この副都・ロッブリーは、ロッブリー川を利用して堀と城壁で囲まれた城塞都市であり、城塞内にナーラーイ王の住居としてプラ・ナーラーイ・ラーチャニウェート宮殿が建てられた。
s-タイ遺跡旅行(2)135
プラ・ナーラーイ・ラーチャニウェート宮殿は現在国立博物館として敷地・建物が公開されているが、フランス人によって設計・施工(1665~1677)されたレンガ造りの建物はナーラーイ王が亡くなった1688年以降廃れて当時の様子は遺構から想像するほかない。
s-タイ遺跡旅行(2)137
宮殿内の門の奥に見えているタイ様式の建物はナーラーイ王の住居として建てられたチャンタラ・ピサーン宮殿で1655年の建築。
現在は仏像などを展示する博物館として公開されている。
s-タイ遺跡旅行(2)149
このチャンタラ・ピサーン宮殿の左手にピマーン・モンクット宮殿が建っているが、これはラーマ4世の仮寓として1856年に建てられたものだが、現在は博物館として公開され、仏教美術品のほか、ラーマ4世の遺品なども展示されている。
s-タイ遺跡旅行(2)148
これはドゥシット・サワン・ターニャ・マハ・プラサート・ホールで、ナーラーイ王が外国人を謁見する折に用いた広間らしい。
写真右手にピマーン・モンクット宮殿とチャンタラ・ピサーン宮殿が並ぶように建っているのが見られる。
s-タイ遺跡旅行(2)145
謁見の間で中央が玉座。
上2枚の写真でも分かるが、窓の切込みが方形なのと上部をドーム状にしてあるのとが混合している。
ガイドの説明によれば、タイ様式のものは方形だがドーム状の開扉口はフランス様式であり、この折衷様式にフランス人が設計に関わっていたことが見てとれるということであった。
s-タイ遺跡旅行(2)147
宮殿は写真のような城壁に囲まれており要塞の感が強い。
城壁の上部などヨーロッパの城壁に似ているとも思う。
s-コピー ~ タイ遺跡旅行(2)138
写真城壁右手前の生垣は象を模したものであり、宮殿敷地の各所で同様のものを見ることができた。
写真ではレンガが崩れてしまっているが、ここは象舎があったところらしい。
きっと、当時は宮殿敷地内を象がノッシノッシと歩いていたのであろう。
労役に軍役にと象は人々に重宝されていたことであろうと思う。
s-タイ遺跡旅行(2)151
プラ・ナーラーイ・ラーチャニウェート宮殿の入り口に向かって右手、つまり、北方向の突き当たりにプラーン・ケークがある。
プラーン、クメール式の仏塔であり写真では黒っぽく写っている。
小さな緑地帯のようなものになっている。
この日、12月18日(2009年)だが、ほぼ真上から照りつける陽光で気温はうなぎ上り。
何度になっていたのかは分からないが、噴出す汗が止まらず喉が渇き、冷房の効いたツアーバスが早く来てくれることばかり願っていた。
s-コピー ~ タイ遺跡旅行(2)152
写真は宮殿の門前に店を出していたオバサンと売り物の果物。
ケース内の氷の上に乗ったパイナップル、パパイヤ、スイカなどの果物が実に美味しそう。
暑さと喉の渇きを癒すためにパイナップルを買って食べたのだが、黄緑色のものが気になったのでオバサンに、「ニー、アライ」と尋ねたら「×?×?×」(メモ書きしたのに忘れた)。
「アローイ?」
オバサン、勿論美味しいよとニコニコ顔で一切れをくれて、食べて食べてと。
誰だって美味しいと思うがな。
それでひとくち。
冷たくて一瞬気持ち良さを感じたとほぼ同時に強力な酸味が・・・
うへっ。
酸っぱい酸っぱい。
ゆがんだ私の顔を見てオバサン二人が笑う笑う。


masatukamoto at 10:26│Comments(0)TrackBack(0)

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字
 
 
記事検索
月別アーカイブ