August 15, 2010

お盆・終戦記念日に思う

お盆というのは仏教世界のこと。
キリスト教やイスラム教の世界では関係がない。
私も仏教徒ではないからお盆という仏事に積極的に関わることはない。

お盆は、盂蘭盆(うらぼん)とか盂蘭盆会(うらぼんえ)とも言うが、亡くなった人の霊魂を死後の苦しみの世界(地獄)から救済するための仏教行事であると聞かされている。

釈迦の高弟の一人である目連(目犍連・もっけんれん)が餓鬼道に堕ちてもがき苦しむ亡母を救う物語が盂蘭盆経に書かれており、このことがお盆行事の根拠となっているらしい。

この根拠となっている盂蘭盆経は竺法護の訳となっているが、中国で作られた偽経と言われてる。
仏教徒ではない私にとっては偽経であれ真経であれ、どっちでもええことであるが、
「ええことは、ええ。」
子として苦悩苦悶する母親を救うというのはええことではないか。

などと思うからというのではないが、仏教徒ではない私であっても、お墓に参って掃除をし、花を供えたり線香を手向けたりする。
迎え火を焚くことはないが、今や観光的行事とも言える精霊流しや送り火を見に行ったりもする。

節操がないということではない。
大変に日本人的であると私は思っている。
AでなければBであり、BでなければAである、という相対する両極しか見ない狭視眼的な見方を私はしない。
勿論、そうした見方を全くしないわけではないが、両極の間もあるという立場をとる。
これは日本人の民族性を表す特徴のひとつでもあるが、キリスト教圏の欧米人には理解し難い面らしい。
pict-朝日の1
今日8月15日、お盆で終戦記念日の朝を迎えることができた。
午前5時20分になっていなかった。17~8分だったように思う。
6月21日の夏至の時は午前4時45分には太陽が顔を出していた。
それも上の写真ではもっと左手の方から。

話が飛んだが、マスコミ報道での行方不明の高齢者が多いことには驚くばかりである。
家族関係、近所関係が希薄になってきたからだとの分析には成る程と納得できるものがある。
また、子どもを死に至らしめる虐待も社会問題化するほどに頻発している。
姥捨て山など昔話の世界であり、間引き、口減らしなど子どもを殺すということは農地改革以前の貧農・貧困に加えて冷害など自然災害に見舞われた特定地域の出来事と思っていた。

人々の見方や考え方にズレが生じてきているとしか思えない。
それもひとつの面だけではない。多方面にわたっていると考える。
思考においては短絡的、或いは思考することをしないこともあるのではとも思う。
極端な表現をすれば人間性の放棄、本能主義と言えるかも。

分からんかったら、見えんかったら、今の自分にとって良ければ。
こういった自分勝手な利己主義が、非難されることも無い世の中で、ぬくぬくと野火が燃え広がるように社会全体に蔓延してきてると言えば言い過ぎだろうか。
私が若い頃は大人でも子どもでも互いに注意し合い、相手への気遣いや配慮もしてきたし、何より恥ずかしいという思いが先にあった。
 
しかし、現代は違ってきていて、注意すれば逆ねじ食わす輩が増え、その逆ねじは時に相手の命をも奪うようなことまで起きている。
『触らぬ神に祟りなし』・・・見て見ぬふり。もの言う人も少なくなってきた。

保身的・・・自分の立場や身を守ることは大事だが、これも過ぎれば自己中心的な利己主義となんら変わりはない。
 
バスや電車でプライオリティーシートと明記してある席に堂々と座っている若者ら。韓国の地下鉄では車内の混雑の度合いにかかわらず優先座席は空けられているのが通常の光景。
 
今日は終戦記念日。
戦争が終わって得たもの失ったもの、いろいろある。
二度と人の命を奪うことがあってはならない。
自らの命を大切にすると同時に他の命も護る。
これが人道、ヒューマニズム。
 
国境なき医師団の活動は素晴らしいと思う。
テレビで流されるキャッチフレーズに、国境が生死の境目であってはならないと。
自他の命を守り、共に生きる。
仏教の根本理念である。
 
今日の終戦記念日、
命の尊厳と他への思いやりについて、じっくりと考えてみたい。


masatukamoto at 11:46│Comments(0)TrackBack(0)

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