September 28, 2010

おもてなし・・・とは。

『おもてなし』すると一言に言ってしまうが、そうそう簡単なことではない。

“もてなす”の名詞形が『おもてなし』であるが、広辞苑などによれば“もてなす”の意味を『歓待する』『面倒を見る』『世話をする』『ご馳走をする』などとしている。

世話をし、面倒を見、ご馳走などをして喜んでもらうことが“もてなす”ことであり、『おもてなし』の『お』は持て成す対象となる人に対して持て成す側の謙譲の気持ちや、丁寧な気持ちを表しているのであろう。

前の項で『おもてなし』について少し触れたが、『おもてなし』は行為であり、行為は目に見える形でもある。

世に無意識の行為・行動なるものは無く、無意識という精神分析上の用語はあるが、意識というのは生体における脳の活動の表れであり、形として見える行為は意識によって操作されているものである。

“もてなす”という行為の前段では、“もてなす”という思いに至るまでの根拠となる経緯であったり、その他様々なことが思い浮かべられていることであろう。

そして、“もてなす”と決意すると同時に、5W1HのWhen(いつ)やWhere(どこで)、What(何を)、How(どのように)などといったことが考え始められる。
img027吉兆料理花伝表紙これは一般の私たちでも料理屋でも同じことである。

『吉兆』の故・湯木貞一氏は著書『吉兆 料理花伝』において彼の『おもてなし』についての考え方を日本料理を通して故・辻 静雄氏との対談の中で述べている。

彼は日本料理の気品というものは世界中どこを探してもないだろうと言い、数寄屋の座敷での給仕、壊れやすい器物を扱っての『もてなし』の仕方、食器や床飾り、たたずまいを含めて細かに仕上げられたのは、お茶の作法に基づくもので華麗という上に、もう一つ侘び、寂びが乗っている。
この侘び・寂びこそ日本料理の一つの華であると語っているのである。

つまり、彼の『おもてなし』の真髄はお茶の作法に基づくものであると言って良いだろう。

茶道入門時は形より入るものの、その奥義は精神修養による侘び・寂びの感得と交際礼法を究めることであり、『おもてなし』というものは目に見える行為(作法)に終わるものではなく、その行為の起因となった意識、『おもてなし』しよう、喜んで頂けるように努めようとする心こそが大切と湯木氏は語っているのだと私は受け止めている。

長くなりそうなので、このへんで。

因みに本の紹介を
  『吉兆 料理花伝』(湯木貞一・辻 静雄 共著 新潮社 1983年)
料理本は高いものだが、この本は6500円。

当時の私には高価な本であったが、季節の料理だけでなく、湯木氏のコレクションの品々が写真で収められていたし、写真撮影が入江泰吉氏、題字が千 宗室氏、本の装丁画は江戸後期の絵師・酒井抱一の作品で『秋草図』(部分)と将に凄い人たちばかり。

そのようなことで買った本であるが、順次整理している書架の中で処分するに忍びず、未だに残っている書籍の中の一冊である。



masatukamoto at 17:24│Comments(0)TrackBack(0)

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