November 28, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【3】 マドリッド(Ⅰ)
スペインの首都マドリッドを訪問する私の目的は、プラド美術館を訪れたことで6割がた達成できた。
マドリッドは都会であり私の興味を掻き立てるほどのものはさほどない。
しかし、歴史の古い町であるし、初めて訪れる町でもあるので多少の興味はあった。 あとは地学的な興味が加わるくらいだろうか。
下はマドリード王宮 (Palacio Real de Madrid)を訪れた時に宮殿東側のオリエンテ広場(Plaza de Oriente)で撮ったもの。
写真の王宮の建物の向こう側にはカンポ・デル・モーロ(Campo del Moro)という広大な庭があり、写真右手(北側)にはサバティーニ庭園(Jardines de Sabatini)、左手(南側)にはアルムデナ大聖堂(Catedral de la Almudena)が建つというように緑多く、バロック風の王宮との調和が気に入った。
この王宮の建設を命じたのはフェリペ5世であり、1738年に着工して1755年に完成したのだとか。
フェリペ5世は1746年に亡くなっているので実際に宮殿を使用したのはカルロス3世であったという。
『ポルトガル・スペインを巡る【1】プラド美術館Ⅰ』において、“スペイン・ハプスブルク家最後の王であるカルロス2世”に触れたが、彼には世継ぎがいなかったためスペイン王位の継承をめぐってフランスのルイ14世が画策を始めたことが他のヨーロッパ諸国を巻き込んだスペイン王位継承戦争への糸口となった。
左の写真はオリエンテ広場を挟んで向かい合うように建つ王立劇場(テアトロ・レアルTeatro Real)である。
1850年に完成しているので王位継承問題に関わるものではない。
レアルと言えばスペインのサッカーチームのひとつ、レアル・マドリードを思い浮かべるが、スペイン語のレアルとは王立のとか王様のといった意味の他、英語と同様に現実のとか実在するといった意味を含んでいる。
スペインのサッカー界ではFCバルセロナと二分する人気を誇るレアル・マドリードであるが、サッカーだけでなく政治や文化面などいろいろな面において対立しているかの感があるのがマドリッドとバルセロナの関係でもある。
"王様のマドリード"というチーム名が妥当かな?
【閑話休題】
さて、カルロス2世の王位継承問題をひも解くには、その血縁関係や当時のヨーロッパの勢力関係を明らかにしておかねばならないのだが、以前にも触れているがヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係は大変ややこしい。
しかし、あえて簡便に極力端折って書いてみることにする。
カルロス2世の父親はフェリペ4世で、フェリペ4世の最初の妃はフランス王のアンリ4世の王女イサベル・デ・ボルボンで、二人の間に王女マリア・テレサができた。
マリア・テレサはフランス王ルイ14世の妃として嫁ぐ。
フェリペ4世の2番目の妃は、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世とスペイン王フェリペ3世の王女マリアナ・デ・エスパーニャの間にできた王女マリアナ・デ・アウストリアである。
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世の妃マリアナ・デ・エスパーニャには姉であるルイ13世の妃となったアンヌ・ドートリッシュ、兄にスペイン王フェリペ4世らがいた。
つまり、フェリペ4世の2番目の妃マリアナ・デ・アウストリアとは叔父・姪の関係になる。
そして、この2人の間に神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇后となったマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャやカルロス2世らができた。
マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャはベラスケスが描いた『ラス・メニーナス』の肖像画の人物である。
これらは極々一部であり、神聖ローマ帝国の皇帝を事実上独占してきたオーストリア・ハプスブルク家は領土と権力を守るために親族間の結婚を繰り返してきたし、スペイン・ハプスブルク家は政治政略上フランス王との結婚を繰り返してきた。
神聖ローマ帝国は現在の東欧・ドイツ・オーストリア・イタリアなどを領土としていたし、それに、フランス、スペインを加えればヨーロッパの面積の大部分がこの3国で支配されていたわけで、これにイギリスやネーデルランドが加わるのでヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係はひと言で言えば『ぐちゃぐちゃ』なのである。
《少し休憩をはさんで次ページへ続く》
マドリッドは都会であり私の興味を掻き立てるほどのものはさほどない。
しかし、歴史の古い町であるし、初めて訪れる町でもあるので多少の興味はあった。 あとは地学的な興味が加わるくらいだろうか。
下はマドリード王宮 (Palacio Real de Madrid)を訪れた時に宮殿東側のオリエンテ広場(Plaza de Oriente)で撮ったもの。
写真の王宮の建物の向こう側にはカンポ・デル・モーロ(Campo del Moro)という広大な庭があり、写真右手(北側)にはサバティーニ庭園(Jardines de Sabatini)、左手(南側)にはアルムデナ大聖堂(Catedral de la Almudena)が建つというように緑多く、バロック風の王宮との調和が気に入った。
この王宮の建設を命じたのはフェリペ5世であり、1738年に着工して1755年に完成したのだとか。
フェリペ5世は1746年に亡くなっているので実際に宮殿を使用したのはカルロス3世であったという。
『ポルトガル・スペインを巡る【1】プラド美術館Ⅰ』において、“スペイン・ハプスブルク家最後の王であるカルロス2世”に触れたが、彼には世継ぎがいなかったためスペイン王位の継承をめぐってフランスのルイ14世が画策を始めたことが他のヨーロッパ諸国を巻き込んだスペイン王位継承戦争への糸口となった。
左の写真はオリエンテ広場を挟んで向かい合うように建つ王立劇場(テアトロ・レアルTeatro Real)である。
1850年に完成しているので王位継承問題に関わるものではない。
レアルと言えばスペインのサッカーチームのひとつ、レアル・マドリードを思い浮かべるが、スペイン語のレアルとは王立のとか王様のといった意味の他、英語と同様に現実のとか実在するといった意味を含んでいる。
スペインのサッカー界ではFCバルセロナと二分する人気を誇るレアル・マドリードであるが、サッカーだけでなく政治や文化面などいろいろな面において対立しているかの感があるのがマドリッドとバルセロナの関係でもある。
"王様のマドリード"というチーム名が妥当かな?
【閑話休題】
さて、カルロス2世の王位継承問題をひも解くには、その血縁関係や当時のヨーロッパの勢力関係を明らかにしておかねばならないのだが、以前にも触れているがヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係は大変ややこしい。
しかし、あえて簡便に極力端折って書いてみることにする。
カルロス2世の父親はフェリペ4世で、フェリペ4世の最初の妃はフランス王のアンリ4世の王女イサベル・デ・ボルボンで、二人の間に王女マリア・テレサができた。
マリア・テレサはフランス王ルイ14世の妃として嫁ぐ。
フェリペ4世の2番目の妃は、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世とスペイン王フェリペ3世の王女マリアナ・デ・エスパーニャの間にできた王女マリアナ・デ・アウストリアである。
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世の妃マリアナ・デ・エスパーニャには姉であるルイ13世の妃となったアンヌ・ドートリッシュ、兄にスペイン王フェリペ4世らがいた。
つまり、フェリペ4世の2番目の妃マリアナ・デ・アウストリアとは叔父・姪の関係になる。
そして、この2人の間に神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇后となったマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャやカルロス2世らができた。
マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャはベラスケスが描いた『ラス・メニーナス』の肖像画の人物である。
これらは極々一部であり、神聖ローマ帝国の皇帝を事実上独占してきたオーストリア・ハプスブルク家は領土と権力を守るために親族間の結婚を繰り返してきたし、スペイン・ハプスブルク家は政治政略上フランス王との結婚を繰り返してきた。
神聖ローマ帝国は現在の東欧・ドイツ・オーストリア・イタリアなどを領土としていたし、それに、フランス、スペインを加えればヨーロッパの面積の大部分がこの3国で支配されていたわけで、これにイギリスやネーデルランドが加わるのでヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係はひと言で言えば『ぐちゃぐちゃ』なのである。
《少し休憩をはさんで次ページへ続く》
masatukamoto at 11:49│Comments(0)│TrackBack(0)│