April 24, 2011

島田陽子さんの死を悼む

島田陽子さんが4月18日に亡くなられたことを2、3日後の新聞で知った。

81歳になっておられたことも新聞で知った。

しばらくお会いしていないと思っていたが、もう10年ばかりにもなる。

島田さんが主宰する会の同人誌『ぎんなん』や『叢生』で彼女の作品を見ていたので、これほど長くお会いしていなかったとは思わなかった。

お孫さんには自らのことを『グランマ』とハイカラに呼ばせ、いつも若やかでありたいと努めておられたのだが・・・


島田陽子さんのご逝去を悼み

   心より哀悼の意を表します

島田陽子さんのお名前を存じ上げなくとも1970年に開催された日本万国博覧会『大阪万博』の歌の作詞家と紹介すれば分かって頂けるかと思う。

島田陽子 作詞
中村八大 作曲

こんにちは こんにちは 西のくにから
こんにちは こんにちは 東のくにから
こんにちは こんにちは 世界のひとが
こんにちは こんにちは さくらの国で
1970年の こんにちは
こんにちは こんにちは 握手をしよう

三波春夫さんが歌っていたが、思い出されたであろうか。

島田さんが亡くなられたことを知り彼女の著書を書棚から取り出して見ていたら、挟んであった懐かしい手紙が出てきた。
pict-img048島田陽子手紙(2)障りがあるので文字を塗りつぶしているが、この筆跡で新たに手紙を頂くことはもう無い。

人と人のつながりとしての縁を、与えられた命を、そして言葉というものをとても大切にしてこられた方である。

島田さんと最後にお会いした頃、長年作詞を続けてきた義姉を紹介しておいた。

姉は故サトウ・ハチローが主宰していた木曜会『木曜手帖』の同人であり、詩を書くということで互いに共通することがあるかもしれないとの思いからであった。
 
その後、幾度か島田さんから姉に声掛けがあり、姉は『ぎんなん』の同人にも加わった。

島田さんは1929年(昭和4年)、姉は1930年(昭和5年)の生まれである。

日本軍部が満州事変を引き起こしたのが昭和6年(1931年)、以後中国全土に戦線を拡大、更に太平洋戦争へと日本を戦争の泥沼に引きずり込んでいった時期と二人の成長時期とが重なる。

やがて敗戦。そして戦後の困難な時期をと、将に激動の昭和の時代を生き抜いてこられた二人には詩を書くということだけでなく同時代性という共通するものがあったのだと思う。

戦争のため連日亡くなっていく多くの人たち、生きるための食べ物を得るのさえ困難な時代を生きてきた二人の言葉には、上っ面な形だけ口先だけの優しさでなく、心の底から湧き出る真誠さを感じる。

詩を書くことを志す人は言葉というものに対して極端に慎重であると同時に、時に驚愕するほどに大胆でもある。

島田さんは「いのちへの謙虚さを持たないあらゆる種類の暴力に対して、その言葉は無力かもしれません。けれど、私の言葉は私を支えることはできます。どんなに貧しい言葉であっても。」と、感情を言葉にし、詩を書き続けることが大切なのだと『共犯者たち』(島田陽子詩集)の“あとがき”に記している。

詩には縁遠い私が、しかも年長者である詩人・島田陽子さんを評するのは面映ゆい気がするのだが、叱責覚悟の上、追悼の思いで書いてみた。

島田さんの著作には前出の『共犯者たち』(島田陽子詩集)、『大阪ことばあそびうた』、『続大阪ことばあそびうた』、『島田陽子詩集・うち知ってんねん』、『金子みすゞへの旅』の他多数ある。

大阪を“我がふるさと”と思う私には、『大阪ことば』に込められた“ココロ”を大切に扱い表現している『大阪ことばあそびうた』と続編、それに『うち知ってんねん』を是非多くの人に読んでもらいたいと思う。

大阪人は微妙な心情を大阪ことばで玄妙に表すが、終わりに島田陽子さんの詩をひとつ。

《 うち 知ってんねん 》

あの子 かなわんねん
  かくれてて おどかしやるし
そうじは なまけやるし
  わるさばっかし しやんねん
そやけど
  よわい子ォには やさしいねん
うち 知ってんねん

あの子 かなわんねん
  うちのくつ かくしやるし
ノートは のぞきやるし
  わるさばっかし しやんねん
そやけど
  ほかの子ォには せえへんねん
うち 知ってんねん

そやねん
  うちのこと かまいたいねん
うち 知ってんねん


島田陽子さんのご冥福を祈ります。



masatukamoto at 03:17│Comments(0)TrackBack(0)

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