July 10, 2011

韓国 済州島行 (3)

済州島に人類が登場し始めた時期を推定するのに現在検証された史料から最も古いものを挙げると、済州市西方の涯月邑ピレモ洞窟遺跡(애월읍 삐레모 동굴 유적)より発掘された各種打製石器や大陸系の褐色熊の骨などにより、7万年~3万5千年前頃の中石器時代であろうとされている。

 参照資料 『済州の歴史と文化』(国立済州博物館 2005年5月25日)

大陸と済州島、対馬や日本列島の成り立ち、或いは人類の歴史を見るには、地球の氷河期とその間氷期を考慮することが重要となる。

比較的新しい更新世の氷期では18万年前~13万年前のリス氷期。その後の間氷期が13万年前~7万年前。
そして最終の氷期と呼ばれるヴュルム氷期が7万年前~1万5千年前とされ、それ以後現在は間氷期に入っている。


氷河期とも呼ばれる数万年から数十万年という長い年月の間、地球上で蒸発した水分が極地の氷床を巨大なものにしていくため、当然海水面の低下が起きて陸地面積が広がる。
pict-img30万年前の大陸と日本
これを大陸と日本という局部に視点を当てると、大陸と済州島、そして日本の対馬、壱岐、佐賀県や長崎県あたりとは陸続きのような状況になることが考えられる。 つまり、日本海が対馬海流の流れ込む海ではなく湖のような、或いは大きい湾と言えるような状態になるということである。

地学にしろ考古学にしろ何万年にもまたがる地球や生物の変遷を誰かがつぶさに見ていたとか文書による記録を残していたというものではないので、発見・発掘された具体物を基に類推するしかないのだが、前述した中石器時代の大陸系褐色熊の骨が済州島の
ピレモ洞窟遺跡で発掘され、その後の発掘がないのは、ある時期大陸と済州島は陸続きであって人々を含め様々な動物たちが行き来していたと考えるのが妥当であろう。

それが間氷期に入って海水面が上昇(海進)し、済州島が島となり、その環境に適さない動植物が滅亡したと考えられるのではないか。 先に紹介した
参照資料『済州の歴史と文化』(国立済州博物館)や他の書籍も概ね同様の見解を取っている。

現代に生きる私たちにとっては気の遠くなるような地球の歴史の一場面、何十万年も前の済州島について見てpict-P1030394外城門
きたわけだが、時代はグンと新しいお話に移そう。

『太王四神記』という韓国のテレビドラマを知っている人は多いと思う。

2002 FIFAワールドカップ 日韓共同開催に次いで、翌年『冬のソナタ』が日本で上映され、ペ・ヨンジュン、チェ・ジュウらが出演したことが韓流ブームの高まりの一因となり、『ヨン様』は日本女性らの憧れの的となって
いった。 そして2007年末、『ヨン様』主演作品である
『太王四神記』が日本でも放映された。

私は数年前から韓国の時代劇をテレビでよく見ており、『商道』『千秋太后』『女人天下』『風の絵師』『ホ・ギュン』『妃チャン・ノクス』『王の女』『チャン・ヒビン』などを見た。 しかし、『朱蒙(チュモン)』や『宮廷女官チャングムの誓い』は飛びとびにしか見ていないので、全編を通して見たいと思っている。
pict-P1030399市場通り

ところで、この『太王四神記』について全く見ていないのだが、撮影のためのオープンセットが済州島の溶岩洞窟・万丈窟の近くにあり、パークサザンランドとして公開されているとのことだったのでモノはついでとばかりに夫氏の姪御さんの車で連れてもらった。

先の写真は入口から直ぐのところに建てられている国内城(クンネソン)の外城門(ウエソンムン)。  国内城(クンネソン)は高句麗(コグリョ)がA.D.3年に遷都したところ。 実際の建物は、およそ2000~1500年ほど前に現在の中国東北部(旧・満州)・吉林省集安に建設された平城で、オープンセットの建物は
忠実に再現されたと言われるだけあって一見すれば大変立派なものである。 しかし、あくまで映画撮影のためのセットなので外観だけを重視したものもあれば、建物内部にもこだわったものもある。 これは京都・太秦の東映映画村と同じことである。 
pict-img065
高句麗はB.C.37年に朱蒙(チュモン)によって建国されてA.D.668年に滅亡するまでの間、ざっと700年ばかり現在の韓国の北半分に北朝鮮と更に中国東北部(旧・満州)を含めた広い国土を有した国である。

高句麗が建国された紀元前37年の頃の中国は前漢の時代で、日本では農耕技術が全国的にほぼ広がり定着した時代である。


私たちが高句麗という国を知るのは日本と直接・間接に関係が生じ始めた4世紀から7世紀頃の朝鮮半島における三国時代からであろう。 

ここで言うところの三国とは高句麗、百済、新羅を指すが、同時代の高句麗北部に扶余、半島南部の百済と新羅に挟まれるあたりに伽耶、これは日本では任那と呼ぶ地域、そして、今回訪れた済州島は耽羅(たんら)と呼ばれていたが、そうした小さな国々も一時期共に存在していた時代でもある。
 

地図は朝鮮半島における三国時代の位置関係を理解するための概略図だが、高句麗と記した直ぐ下の赤い点の部分が国内城の場所を示している。
余談だが、韓国ドラマでは高句麗建国の祖『朱蒙(東明聖王)』を題名とするもの、朱蒙の孫で高句麗3代王ムヒュル(大武神王)の生涯を描いた『風の国』、高句麗19代王の広開土王に焦点を合わせた『太王四神記』、隋pict-P1030401ヨンガリョの邸宅に替わって中国を統一した唐の太宗(李世民・)が
645年に高句麗へ遠征するが、この時の高句麗の将軍の名前を題名にした『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』、圧倒的な戦力差の唐の遠征に対して高句麗は幾度も防衛するも、668年、唐と新羅の連合軍を相手に高句麗は滅亡するが、高句麗再興を期し、やがて698年に渤海を建国した初代王の名前を題名とした『大祚榮(テジョヨン)』など、高句麗に関するものがある。

ドラマ『太王四神記』が朝鮮建国の檀君神話、それに高句麗の領土拡張と国家体制を整備した広開土王(諱を談徳・タムドク)の時代を描いているので、参考程度に歴史的事象を時系列にピックアップしてみる。

B.C. 37年  高句麗が建国  (中国は前漢の時代。日本では農耕技術が全国的に広がり、ほぼ定着。)
A.D. 25年  中国は光武帝が統一を果たし後漢。
A.D. 57年  光武帝より『漢委奴国王』の金印授かる。 (福岡県志賀島で発見。 当時の日本は『倭』。)
         高句麗は後漢に貢物を献上するも両国間では小さな戦がしばしば起きていた。
   147年  邪馬台国の卑弥呼が魏志倭人伝・後漢書倭伝に登場。

   313年  百済、新羅が建国なり、高句麗と併せて朝鮮半島は三国時代に入る。
   367年  倭(日本)が百済との関係から新羅を攻める。 (神功皇后摂政記)
P1030402ヨンガリョの邸宅
         以後、百済、新羅をめぐって高句麗と倭が争い、それに中国(当時の東晋や宋)が絡む。
         高句麗、百済、新羅、三国が中国(北魏、南斉、梁、陳、北周、隋など)に内属する。
   392年  394年、395年、396年と百済と戦った高句麗(
広開土王
)が百済を属国化する。
         高句麗が契丹を征討。
   397年  百済が
倭(日本)と通好。
   399年  百済が高句麗に対抗するため倭(日本)と通ず。 (新羅は倭の侵攻を受けていた

P1030404ヨガリョの邸宅
   400年  高句麗が大軍を送って新羅を救援し、倭を伽耶(任那、加羅)まで追討した。
         後燕(現・中国)が高句麗に侵攻してきたので、高句麗反撃の後、遼河東岸地域を占領。
   402年  新羅は倭(日本)と通好。

   404年  倭(日本)が高句麗の帯方地方(下・ソウル北西部)に侵攻するも敗退。
   407年  高句麗が後燕(現・中国東北部)を侵攻。 
   410年  高句麗が東扶余を占領。  
   412年
 
 
広開土王が亡くなり、長寿王が高句麗20代の王となる。   
P1030406太学から大殿
   450年  高句麗が新羅を討つ。
   476年  高句麗が百済を討つ。
   508年  耽羅人(済州島人)百済に初めて通ずる。
   538年  百済・聖明王より日本に仏教が伝えられる。
   589年  隋が中国を統一。
   598年  高句麗が隋を警戒して中央アジアやモンゴルに広大な領土を持つ突厥(とっけつ)と同盟。
         隋が高句麗に対して遠征を行う。遠征(598年~614年までに4度)。
   604年  聖徳太子、17条の憲法を発布。
   607年  遣隋使として小野妹子を派遣。
   618年  隋が滅び、唐が中国を統一。
P1030407外城門から市場通りと大殿
   621年  唐が、高句麗・新羅・百済を冊封(属国化)。
   642年  百済が新羅の西部40の城を陥落。
   643年  高句麗と百済が同盟を結ぶ。
   644年  百済が新羅の城30を陥落。
   645年  唐の太宗が高句麗の北西部を攻撃。持久戦の後撤退。
         (新羅が唐と同盟を結ぶ)
   660年  唐と新羅の連合軍が百済を攻撃。
         百済・義慈王が唐に捕えられ百済が滅亡。
   663年  白村江の戦い
         当時日本にいた百済の王子豊とその家臣たちは百済復興を願って日本に援軍を要請。
         中大兄皇子は2万7千人の援軍を送り、4度戦うもいずれも大敗を期す。
   668年  高句麗の王族の内紛に乗じて、唐と新羅の連合軍が高句麗を攻撃。
         都であった平壌が陥落して
高句麗が滅亡
pict-P1030410外城門にて
この後、676年に朝鮮半島は唐の属国として統一新羅の時代に入るが、698年には渤海が建国なる。
その後も王族や貴族の権力争いが続く中、900年に後百済が、901年に後高句麗が生まれ、新羅とともに後三国時代を形成することとなった。

上に掲載した写真は、いずれもパークサザンランドのオープンセットでのもの。 外城門(ウエソンムン)の上で撮った写真の遠方の山は方角的には城山日出峰
(ソンサンイルチュルボン)だろうか。 この山については別の機会に書くとして、人物は今回お世話になった夫氏である。 サングラスではなく目隠しを施した。

朝鮮半島における三国時代について、日本や中国との関わりも含め幾つかの歴史的事象を挙げてみたが、『太王四神記』は物語のプロローグで檀君神話を取り上げている。

パークサザンランド(2)
檀君神話については『朝鮮半島の民話』(平成の寺小屋編)でも取り上げているが、天の神である桓因(ファイン)が息子である桓雄(ファンヌン)に人間界を治めさせようと太伯山頂きの栴檀の木の下に自然の営みを司る臣下とともに降臨させたことより始まる。 
桓雄は命・病・善・悪・穀・刑を司って人間を教化していくが、ある時、熊と虎が人間になりたいと申し出てきたので、モグサ(ヨモギ)1束とニンニク20個を食べて100日間陽の当たらぬ洞窟で過ごせば人間になれると教えた。 
pict-P1030390水汲み婦人
しかし、虎は約束を守れなかったが、熊は約束を守って人間の女になった。 
この女の気立ての良さを気に入った桓雄が妃とし、やがて子が生まれた。 
この子の名前が檀君王倹(タングンワンク゜ム)であり、彼は平壌城(ピョンヤンソン)を都に定め、国号を朝鮮として国を治め、後に都を阿斯達(アサダル)に移したが、周の武王が殷の箕子を朝鮮王に封じたので阿斯達の山の神となり、1908歳の寿命を終え、その治世1500年に及んだというのである。

この建国年が紀元前2333年であるとし、韓国史として教科書でも教えているのだとか。

日本にも国産みの神話はある。 紀元前2333年頃と言えば縄文文化の時代で言えば後期にあたり、貝塚を中心に大きい集落が出来ていた頃である。

檀君神話のように言えば、『古事記』冒頭部(序1~3を省く)には「天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神(以下省略)」。 つまり、天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でし神の名は天之御中主神であるということから始まるが、『古事記』は712年(和銅5年)に稗田阿礼が誦するのを太安萬侶が筆記し、編纂したものである。 天地開闢がいつを指すのか想像もできないが、日本にヒトが現れた頃を指すならば旧石器時代の50万年前となるし、縄文文化の初期とすれば紀元前7500年頃となる。
pict-P1030480粉挽き石
この長い歴史時間の間に起きた多くの出来事をいかに暗唱力に優れた者が代々いたとしても正確に口伝し続けるのは土台無理なことであり、文字としてその時代の記録がなければ、やはり神話(お話)とすべきであろう。

そうした意味において中国の司馬遷が『史記』を書き著し始めたとされるのが紀元前104年頃で、完成したのが紀元前90年頃だとされている。 従って彼が生存していた時代に記されていることならば歴史的事実と認めても良いだろう。 その時代に生き、その時代のことを記しているのだから。

朝鮮史上、高句麗が建国される以前を古朝鮮(コチョソン)と総称し、檀君(ダンクン)朝鮮・箕子(キジャ)朝鮮・衛氏(ウィシ)朝鮮の三国を表している。 

紀元前(B.C.)2333年建国の檀君朝鮮の存在はA.D.1280年代に記された『三国遺事』に魏書からの引用として名前が見られるが、現存する魏書や、それ以前の書に檀君朝鮮に関する記述は無いと言われているだけでなく、魏書が完成したのがA.D.554年のことであり、この書自体、編纂の時点から「穢史」と呼ばれ公正さを欠くものであったとされていることなどから、歴史学上、檀君朝鮮は神話と見るべきであろう。

箕子朝鮮の箕子は中国・殷の28代王の子であり、殷滅亡後、周の武王が朝鮮侯に封じて以後、箕子の子孫は代々世襲したことが『史記』に記されている。 周の武王は殷の紂王を倒して周を起こした人で、武王の在位は紀元前1023年から前1021年であろうと推量されるが、この根拠とされるのが『春秋左氏伝』。 『春秋左氏伝』には紀元前700年頃から前450年頃までのことが書かれているが、暦学上の検証から紀元前538年頃に書かれたものであろうとされている。 従って、この書においても箕子朝鮮をその時代に生き、その時代のことを記しているとは言えず、伝聞、伝説の域をでないものとせねばならない。
pict-P1030389
衛氏朝鮮の祖は衛満(ウイマン)。 彼は燕の武将であったが燕王が前漢に背いたため危険な立場になったことから「燕人満は千余人を連れて東方に亡命し、朝鮮・真番ならびに燕・斉から流れた族を糾合して、ついにその国に王となり、王険(平壌)に都した」と司馬遷の『史記』(朝鮮列伝)に紀元前195年の出来事として記している。 『韓国の歴史』(李景珉 監修、水野俊平著)では、衛満は当初朝鮮半島に逃れてコロニーを形成していたが、当時古朝鮮にいた準王を攻めて政権を取り衛氏朝鮮を建てたのは紀元前194年から前108年の間、紀元前2世紀の頃に建てた実在の国であるとしている。

そして、紀元前109年に前漢の武帝に攻撃された衛氏朝鮮は紀元前108年に滅亡するが、前述したように司馬遷が『史記』を書き著し始めたとされるのが紀元前104年頃のことであるから、衛氏朝鮮が国として存在していた頃は司馬遷が生存していた頃と重なるため、この国が実在したと文献上確かなことと言える。

先の『韓国の歴史』(李景珉 監修、水野俊平著)に紹介されているが、中国の『菅子』や『山海経』に『朝鮮』の文字が見えることから紀元前7世紀頃には朝鮮という地名があり、これは「箕子朝鮮のことだが、その存在ははっきりと確かめられているわけではない。」と、歴史学上の慎重な立場を取っている。

青銅器や鉄器の生産、中国やモンゴルなど大陸に生活していた人々の遺跡・遺物などをもとに考証すれば紀元前2333年建国の檀君朝鮮も実在国家であったと言えるかもしれないが、何分記録が無い、或いは極端に少ない時代のことである。 科学的に実証されない限り、それは伝説・お話の域を出ない。

5世紀代には日本でも文字が使用されていたと考えられているが実証されない以上それは推量でしかなく、古代史は曖昧であるゆえに夢があり面白いと言えるのかもしれない。

そうした意味において、『太王四神記』もお話としてドラマとしてオモロイのであろう。


※ 石造物の写真は
パークサザンランドにあったものではない。

  
 391年  倭が百済、新羅を攻め、臣民とする。(高句麗・広開土王碑銘)
         高句麗・広開土王が即位する。(三国史記では392年)



masatukamoto at 07:49│Comments(0)TrackBack(0)

トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
記事検索
月別アーカイブ