December 25, 2011

四国~九州への旅 (6) 佐伯 (ホテル金水苑 ・ 城下町散策)

高知県の宿毛港から佐伯港にフェリーが到着し、我が愛車のヘッドライトを照らして上陸したのは午後7時20分ぐらいだったろうか。 博多の T 君と奈良の Y君に依頼して教えてもらった『ホテル金水苑』に向かうつもりが場所が分からない。 車載のカーナビは10年前の代物であり、これまで道なき道を走らせてきた強者である。 目的地pict-P1040483金水苑(1)付近に到着とのアナウンスはしてくれるのだが目的の建物が見つからない。 誰かに尋ねようと思うものの歩いている人も無く、店舗らしい建物もシャッターを閉じて町全体が暗いのだ。 そんな佐伯の町をクルクル回り、やっとホテルを探し当ててチェックイン。
(ホテルの写真だが翌朝撮影したもの)

夕食は道路を挟んで向かい側にある和食レストラン『番匠亭』で食べることができるというので部屋に荷物を置いて直ぐに出かけた。 時間が遅かったからであろう、先客が1人いるだけで落ち着いて食事ができた。 料理は一品ずつ運んできてくれるのだが素材・盛り付け・味ともに先ずまず、料金も決して高くはなく私としては満足させてもらった。 満足と言えばレセプションでビールor日本酒のサービス券なるものを頂いたことも書き加えておかねばならない。
pict-P1040480番匠亭
お酒と言えば私だけが飲んでいるように思われがちだが家内も飲むのであり、これは証拠写真と言える。 家内が飲んでいるのはキリンビールならぬタダビール。 サッポロが無かったのは残念だがタダビールは美味しいものだ。

この夜ゆっくり眠れたのは言うまでもない。

旅先では早朝の散歩をよくするのだが、この朝も家内に付き合せてブラブラ出かけた。 
pict-P1040492番匠亭
ホテルの前が写真の『番匠亭』。  

その隣の医院の門を曲がればまたもや『ホテル金水苑』の建物(番匠亭の右手)。 こちらの外観は白色で1階にはブライダルサロンとキリスト教会式の結婚式場が設けられ、『番匠亭』ともつながっていた。 この白色の建物の直ぐ前がJR佐伯駅であり、昨夜は分からぬpict-P1040482金水苑(2)
ままにこの辺りを何度もクルクル車で周っていたことが分かった。 『ホテル金水苑』、JR佐伯駅、フェリー乗り場とも割に近い位置にあったのである。 写真奥右手がJR佐伯駅になる。

最近のホテルや旅館の食事はバイキングスタイル(本場の北欧ではスモーガスボードと言う)で提供する所が多pict-P10404843朝ご飯
いが、『番匠亭』は違った。

好き嫌いはせず出されたものは残さず頂くという教えを守る私にとって、写真の『番匠亭』の朝食は充分すぎる量であり大変なご馳走であった。

私の朝食は、『ごはん』『味噌汁』『玉子焼き』という三種の神器なるものがあり、これらがあれば大満足なのである。 もっとも、『玉子焼き』というのは熱々焼きたての出汁巻のことなので、これは我が家でのこと。 ホテル旅館で、その場で焼いてくれる場合は目玉焼きでもプレーンオムレツでも良pict-P1040491
いし、通常は生卵か温泉玉子を頂くのだが、食中毒を懸念してか生卵を提供しないところが多くなり、これは私にとっては残念なことである。 玉子の厚焼きを提供している場合もあるが、これは砂糖を加えている場合が多いので頂かない。 私の理解で言えば、アレはお菓子であって、おかずではないのだ。

ところで昨夜はお腹が空いていたので気付かなかったのだが、朝食を食べに『番匠亭』に入る際、ドアのところに彫刻が展示されているのpict-P1040486将軍の孫 西望に気付いた。
子羊を抱く少女というテーマが相応しい銅像は以前に見たことがあるのだが作者を思い出せないままでいるのだ。
それと今一つ、こちらは『将軍の孫』というテーマで北村西望(きたむら・
にしも)の作品である。 最近では島根県安来市にある足立美術館に展示されている像を見た。 これについては9月25日付のブログで紹介しているが、それ以前には姫路市の大手町だったかの野外美術館でも見たことがあるが、「こんにちわ」とかのテーマプレートを貼り付けてあったので「ええっ?」と不思議に思ったことがあった。

ともあれ『ホテル金水苑』はレセプショニストや『番匠亭』のお運びのお嬢さん達の対応は良いし、ホテルの施設・設備も良く、料金についても納得の価格で私の基準では優秀なホテルと判定。 博多の T 君と奈良の Y君にはあらためて感謝の意を表しておきたい。
pict-佐伯市地図
佐伯は今春に一児の母となった R子の父親の実家があると聞いていた。 佐伯に近い島であるということだったが、城下町・佐伯の旧市街はさほど広くはない。 上の地図で左下の城山と赤い文字が集まっている地域が城下町の主たるところである。
pict-P1040496佐伯鶴城高校
写真は武家屋敷の遺構が残る山際通りと本馬場通りに面して建つ大分県立佐伯鶴城高校。 大分県代表として春夏の高校野球大会に出場したことがある。

ところで佐伯だが、私はこの町を訪れるまで『さえき・SAEKI』と思い込んでいたが、実は『さいき・SAIKI』なのだと。
昔、近畿日本鉄道の社長をしていた故・佐伯勇も洋画家の佐伯祐三も『さえき・SAEKI』であり、この町も当然同じだと思っていたが、この歳になってまたひとつ学習することとなった。
pict-P1040504武家屋敷通り(1)
上の写真は武家屋敷の遺構が並ぶ山際通り。

人名を間違えるのは失礼なことで判別できない時には丁重に尋ねるようにしてきたが、『え・E』と『い・I』の一字違いで聞き違いをしていたのかもしれない。 それで思い出したのだが、地震・津波の報道で某テレビ局のアナウンサーが宮城県の石巻を『いしまき・ISHIMAKI』と発音していた。 

下の写真は武家屋敷の遺構が並ぶ山際通り。
pict-P1040502武家屋敷通り(2)
石巻は私が学生時代に何度も訪れている所なので、アナウンサーの言葉を聞くと同時に違和感を感じて瞬時に間違っていると判断したのであるが、アナウンサーが言っているのだから・・・ひょっとしたら私が間違っていたのかと調べ直したことがあった。
勿論、石巻は『いしのまき・ISHINOMAKI』が正しく、アナウンサーが間違っていたのだが、確かにと思っていても自信が揺らぐということは時々ある。 しかし、それにしてもだが、言葉を正しく話し、物事を正確に伝えることを生業とするアナウンサーの能力欠如が最近とみに目立ってきているのは嘆かわしいことだ。 テレビの視聴率を高めるためなのか、知性よりも美貌・見映えを優先させて採用するという傾向があるのかとも思う。  
pict-P1040503薬医門
上の写真は薬医門。 薬医門というのは医師が出入りしたりする門だということもあったらしいが、一般の門とは建築上異なる門を言うらしい。 通常柱は屋根の棟木の真下に位置するように建てられるらしいが、薬医門の場合は屋根の棟木よりも外から見える柱の位置が
img117奥(敷地内)に入り込んでいるものらしい。 

薬医門の構造は概略図に示した通りであり、通常の門よりも庇(ひさし)部分が長い、つまり雨天の場合に門前に待つ者の体が雨にあたりにくいと解釈できるような門であるとイメージできるのではないだろうか。 よくは知らないが2008年3月18日付のブログで茨城県・水戸城の薬医門の写真を掲載しているので参考までに。
pict-P1040497佐伯城址(三の丸門)
佐伯は関ヶ原の合戦の後、1601年(慶長6年)に毛利高政が日田から佐伯に移り、八幡山に城を築き、番匠川を埋め立てて城下町を造ったのが始まりであるとされている。

写真は現存する遺構・三の丸大手櫓門。 ここより写真左手へ登ったところに本丸跡があり、佐伯2万石の石垣遺構を見ることができる。

佐伯は豊後国風土記では海部郡の穂門郷(ほとのさと)と呼ばれていたようで、昔者(むかし)、纏向日代宮御宇天皇(まきむくのひしろのみやにあめのしたをさめたまひしすめらみこと)、つまり景行天皇が船をこの穂門に泊めた時、海の底に沢山の海藻が長く伸びて美しかったので天皇が「最勝海藻(ほつめ)を取れ」と命じられた。 それで海藻を取って献じたということが記されている。 景行天皇は垂仁天皇の皇子で熊襲(くまそ・九州南部を言う)征伐を行ったとされるが、記紀伝説上の天皇であることを付け加えておpict-P1040501
く。 
.この佐伯という名がいつ頃から使われ始めたのか疑問に思って調べてみたのだが明らかにするには至らなかった。 ただ続日本紀767年(神護景雲元年)に『従五位下佐伯宿禰久良麿爲豊後守』と記され、佐伯宿禰久良麿が豊後守として穂門郷に佐伯荘を拓き住まいしたことが分かっているので、多分佐伯としての地名はこの頃から使われ始めたのではないかと推量する。
※ 参考 続日本紀 四 新日本古典文学大系 岩波書店
 
名前と言えば佐伯2万石の初代藩主が毛利高政であることは先に書いたが、この毛利家は長州(山口県)の毛利家とは関係が無いということも当地へ来て知ったことである。

毛利高政は元々羽柴秀吉の馬廻りであったが、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた折、備中高松城を水攻めにし、その援軍の毛利勢と対峙していた。 秀吉は天下取りのため急遽毛利との講和を結び『備中大返し』という大胆な策を講じて山崎の合戦に臨むことになったが、この時に毛利方へ人質として送ったのが森高政とその兄・重政であった。 この高政が毛利輝元に気に入られ、森(もり)と毛利(もうり)と唱うるは同じゆえ向後毛利と名乗り兄弟の契りを結ぼうと言われたことから森が毛利になったのだとか。

pict-P1040495養賢寺外観
その毛利高政が毛利家の菩提寺として創建(慶長10年)したのが養賢寺(臨済宗妙心寺派)。(上下写真)
pict-養賢寺パノラマ

『拝観拒絶』・・・山門から写真だけ撮らせてもらった。 禅宗寺院は拝観を拒絶しているところが割に多いように思う。 まあ僧侶たちの精神修養の場だから止むを得ないかとも思うのだが、一方、私の思いの中では何とケチ臭い独りよがりのクソ坊主らめ、そんなに狭い了見で悟りを開こうというのかと呆れる思いもあるのだ。 ははははは、私の理解が至らぬのかもしれないが仏の教えに照らして矛盾が無いのだろうか。
pict-P1040512三義井
江戸中期、天明の大飢饉として史書にも記録されている近世史上最大の飢饉が起きた。 日本では浅間山の噴火が起きたが、アイスランドの2つの火山噴火が北半球全体の日照量を妨げたことが大きい原因であったとされている。 天明の大飢饉は1782年から1788年と長期にわたるものだったが、この頃、佐伯でも飢饉が続き御典医・今泉元甫が城山の麓に3つの井戸を掘って人々を助けたそうだが、その三義井のひとつ『安井』。
pict-P1040509
武家屋敷の遺構が並ぶ山際通りを歩いていたら『国木田独歩館』があった。 

国木田独歩と言えば『武蔵野』を思い浮かべるほどで、東京の人という印象が強いために佐伯に記念館が?との思いで奇異に感じたのだが、明治26年(1893)10月から翌年の6月まで僅かな期間であるが佐伯の鶴谷学館で英語と数学を教えていたらしく、その時に弟と共に下宿していた家を『国木田独歩館』として公開しているのだ。
pict-P1040513
写真は佐伯市立佐伯小学校の校門だが、安永8年(1779)に開設された藩校『四教堂』の額が掲げられている。

佐伯の武家屋敷通り(山際通り)と言っても現に人々が住まいしているのだから往時のままに保存できているわけではない。 が、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出す町であった。 端からゆっくり見て回ろうと予定を組んで訪れたわけではない。 言わば佐伯はフェリーの到着港であり、私たちの旅行の通過点であったのだが、気が向くままに歩いて回っていたらついつい時間を潰していたということであった。

日本中かなりあちこちを巡ってきたが、まだまだ知らない所が多いということである。 そして気に入ったところでは気の済むように巡り、気の済むまで滞在する。 これが国内外を問わず、私たちの最近の旅行スタイルである。
懐は豊かではないけれど、有難いことに時間だけはたっぷり使わせていただける。 感謝・合掌




masatukamoto at 21:39│Comments(0)TrackBack(0)

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