December 30, 2011

四国~九州への旅 (7) 高千穂峡・高千穂宮・天岩戸

佐伯を出発して国道10号線を延岡に向かい、延岡からは国道218号線で五ヶ瀬川を遡るように車を走らせた。 石ころがゴロゴロする河原をキラキラ輝き流れる川はとてもきれいで所々に簗場設けられ、獲れた落ち鮎を食べさせてくれるのだろう小さな小屋のような店が建っていた。 国道はどんどん高所に上り、車が山間に架けられた橋梁を渡る時には五ヶ瀬川の細い流れが遥か下の方に眺められた。 

目指す高千穂峡までの道のりは結構ある。 佐伯からは寄り道もせず昼食も摂らずの運転であるが、道路が空いていたので疲れを感じることもなく走ることができた。 家内も私も同じだが、ホテルで朝食をしっかり食べたら昼食はほとんど食べないでいることが多い。 前ページでも書いたが、バイキング形式での朝食の場合は必ずと言って良いほどに昼食を摂ることはない。
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学生時代には旅館で出された朝食のお櫃に残ったご飯をおにぎりにして頂いて出ることが常であったが、今では懐かしい思い出話である。

高千穂峡は阿蘇山中岳の東南約30kmほどの所に位置している。

阿蘇カルデラは27万年前から9万年前に起きた火砕流によって出来たものだが、当時の阿蘇山の火山活動における火砕流は160kmも離れた山口県の秋吉台あたりにまで流れ下るという大規模なものだったから当時の高千穂峡あたりの火山噴出物の堆積が想像もつかないほど膨大な量であったことが想像できる。

上の写真は100mもの高さの断崖が7kmばかり続く高千穂峡の一部で、溶結凝灰岩が浸食されてV時峡谷を形成しているのが分かる。

昭和38年の5月だったと思うが、別府から、今は無くなってしまったようだが亀甲
マークの亀の井観光バスに乗ってやってきたことがある。 もう48年、半世紀も前pict-P1040515のことだが、今回私は2度目、家内は初めて訪れた。 

私たちが高千穂峡に到着した午後の時間帯が最も多くの観光客が訪れる時間帯だったようで、駐車場へ車を入れようとしたら満車だからと、少し離れた駐車場を指示された。 うーん、少し前から小用を催し、駐車場で車を停めたら直ぐにと思っていたのでガックリ。 それより何より最近は思い立ったら我慢が出来なくなってきている。 頻尿傾向にある上、排尿しても勢いよく出ないし、出しきれずに残尿感が残る。 友人が前立腺肥大で困っているというのを全く他人事のように聞き流していたが、どうやら自分も同じなのかと・・・  排尿を我慢するというのは大変なことで冷や汗がタラタラ。 ブレーキペダルを踏むのもままならない。 しばらく走って到着した指示された駐車場も満車状態。 もうこれ以上はダメと駐車している車の前に停車し、慌ててトイレに駆け込む。 小便の出は悪かったものの、何とか排尿できた時の気持ち良さ。 これは万国人間共通の幸せ。 この部分を読んだ人は、切羽詰まった我慢しようのない苦痛と排尿後の嬉しく爽快な気分について共感できるものと思う。 ぶっははははは
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車を運転していると、時にこうした経験もするものだ。 ともあれ気分が落ち着いたので駐車スペースが空くまで待機。

この駐車場から高千穂峡を巡るには随分と傾斜のきつい階段を下りて行かねばならない。 将に『行きはよいよい帰りは怖い』である。

下の写真中央の白く水が流れ落ちている部分が真名井の滝。
写真右手には岩石の節理がよく見えている。
以前にも火砕流については書いているが、比較的新しいところでは長崎県・雲仙の普賢岳の噴火(1990年)によるものがある。 火砕流は火山噴出物が高温でガス化したものと考えて良く、それが大量に噴出して堆積した後にも高温状態にある時、含まれている鉱物が融け、融けた鉱物の粒子同士がくっ付く場合がある。これを溶結pict-P1040523
凝灰岩と言って、単に火山噴出物が堆積してできた凝灰岩とは区別している。 分厚く堆積した溶結凝灰岩が冷却・固結する時に体積の減少が起きるため規則的な割れ目が入って柱状節理が形成されるが、見事な柱状節理が写真に見てとれる。

もう30年も前のことになるが大阪府と奈良県の境にある二上山の南側、『竹内街道(たけのうち・かいどう)』辺りの地学巡検に何度か加わったことがある。 『竹内街道』というのは大和と難波を結ぶ最古の官道であり、二上山の雄岳は山頂に大津皇子の墓があることでもよく知られている所である。 この二上山は新第三紀(2303万年~258万年前)の2000万年前頃に形成された火山で数百万年間活動したと考えられているが現在は死火山である。 しかし二上山の火山噴出物が堆積している二上層群には様々な歴史が秘められており、地学に興味を持つ者にとっては狭い地域で多くを学べる絶好の場所。 火砕流の堆積によってできた凝灰岩が隆起してできた山『どんずる峯(ぼう)』の他、石切り場火山岩の柱状節理の露頭やザクロ石を含むサヌカイト質安山岩の採取等々。 更に大和飛鳥地方の古墳石棺には当地の凝灰岩が用いられていることが多いことも興味ある者にとっては大きい余禄となろう。 
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※ 写真は高千穂宮の鳥居から、以下、神木と本殿と続く。

高千穂峡から話題が飛んでしまったが、人間の記憶というのは単独ではなく連鎖的にあるもので寄り道したとしても仕方がない。 それを文字として、或いは言葉として表すかどうかの違いであって、脳内では複雑に結び合い絡まっているものなのである。 そうした記憶の連鎖ということで『高千穂』と言えば私は『天孫降臨』という言葉と『紀元節』の歌詞を思い浮かべてしまう。

♪ 雲に聳ゆる高千穂の
   高根おろしに草も木も
    なびきふしけん大御世を
     仰ぐ今日こそ楽しけれ

長いこと、もう半世紀以上も昔に聞き覚えた歌詞だから間違えているかもしれないが紀元節の歌詞である。 紀元節とは神武天皇が即位した日ということで明治政府によって2月11日と定められてきた。 これは戦後に廃止されたものの1966年だったか『建国記念の日』という新しい名称で復活した。 

神武天皇については『古事記(上・中・下巻)』の中巻に『神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)』として記載されているが、古事記は上巻が天地開闢から鵜萱草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、中巻が神武天皇から応神天皇まで、下巻が仁徳天皇から推古天皇までの神話・伝説・歌謡など天皇を中心に日本の成りpict-P1040530
立ちを物語っている。 この『古事記』は天武天皇の命によって稗田阿礼が誦習したものを太安万侶が書き留めて712年にまとめたものであることはよく知られているところである。 

『古事記』中巻の冒頭より綴られる『神倭伊波禮毘古命』が高千穂宮にて兄と議り、東の地を従えんと日向(ひむか)より発ち、宇沙(現・宇佐)、阿岐(あき)、吉備、浪速、日下(くさか、現・東大阪市)、盾津(現・東大阪市)、血沼の海(ちぬのうみ、茅渟の海・現在の大阪湾)、紀國、熊野から吉野、宇陀へと進軍する『神武東征』などは話としてはなかなか面白い。

『日本書紀』の巻三『神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)』では、『神武東征』について話し合った時を天孫降臨より『一百七十九萬二千四百七十餘歳』、つまり『179万2470余年』経っていると記しているのである。  『古事記』は712年だが『日本書紀』は720年の完成である。 日本書紀の記述が正しいとするならば、『神武東征』より約180万年も前に天照大御神の命を受けた邇邇藝命が筑紫の日向(ひむか)の高千穂に天下ったことになる。 『古事記』冒頭には『天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神、次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者、並獨神成煮坐而、隠身也。』と天地(あめつち)初めて開けし時の神々についての記述があるが、これら高天原の神々pict-P1040531
が独神(ひとりがみ)となって身を隠した時は天孫降臨から更にどれ程遡らなければならないのか。 稗田阿礼がスーパーコンピュータであったなら可能かもしれないが、天の浮橋に立った伊邪那岐命と伊邪那美命が天の沼矛を指し下して盬許々袁々呂々邇(しほこをろこをろに)とかき回した頃のことより出来事を順次正確に暗記・暗唱できたなど人間業ではない。

それと『紀元節』だが、日本書紀 巻三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)には『辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。』、つまり「辛酉年(かのと・とりのとし)春正月(はる・むつき)の庚辰(かのえ・たつ)の朔(ついたち)に、天皇、橿原宮(かしはらのみや)に卽帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(ことし)を天皇の元(はじめの)年と爲(な)す。」と記しされているように、神武天皇の即位は1月1日であった。 しかし、明治政府は明治6年に紀元節を2月26日とし、これが敗戦の年まで続いた。
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この高千穂宮から車で 10kmばかり北東に走った所に天岩戸神社がある。 写真は遥拝殿で岩戸川を挟んで向かい側に天岩戸がある、らしいが通常の参拝者には見ることができない。

天岩戸は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の乱暴狼藉に怒った天照大神が隠れた岩屋で、そのため高天原も葦原中国も真っ暗になり、八百万の神々が天の安河の川原に集うて相談し、天宇受賣命(あめのうずめ)の踊りと天手力男神(あめのたぢからお)の怪力によって岩戸の戸を開いたという神話だが、このことを偲んで邇邇藝命が祀ったとされている。

オモロイのは八百万の神々が集うて相談したという天の安河の川原というのが岩戸川の少し上流にあり、この地では天孫降臨は高千穂宮から 5kmばかり東南に位置する二上山であると言われてもいる。 更にオモロイことに、『古事記』に天宇受賣命が天の香山の天の日影を手次(たすき)にかけて、天の眞折(まさき)をカズラとして、天の香山の小竹葉(おざさ)を手草に結ひて、天の石屋戸に汗氣(うけ=桶)伏せて蹈(ふ)み』裸になってお踊ったと記されているが、この天の香山は高千穂宮から 4kmばかり北東、天岩戸神社との間に位置する天香具山のことだとしていることだ。

断っておくが神話や伝説を事実と信じている人の思いを否定するつもりはない。 信じる信じないは全く自由であってオモロイという表現は軽蔑しているわけではなく、天孫降臨の地にしろ天岩戸にしろ全国には幾つかあるので、邇邇藝命は久士布流多気(くじふるたけ)に天降ったとされているが何処に天降ったのか、また天宇受賣命が裸踊りを披露したというのは何処の岩戸なのか、そんなことを考えているとオモロイなあという気になってくる、それをオモロイと表現しているのである。



masatukamoto at 18:00│Comments(0)TrackBack(0)

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