January 29, 2012

四国~九州への旅 (10) 飫肥

飫肥(おび)。  何とも難しい読み方である。 中学校へ進学した時に貰った『中等地図』を見ていて、これは何と読むのかと地名に関心を抱いた確か最初の地名であったように記憶している。

飫肥の『飫』は「あきるほど腹いっぱい食べる」とか、「余るほどのご馳走」といった意味の漢字であり、『肥』は「こえる」とか「太る」といった意味の漢字である。 つまり、地名から想像して「とても肥沃な土地で作物がよく育つところ」との思いを私は抱いていたのだ。
pict-P1040569大手門通り
しかし、今回初めて訪れて分かったのは、飫肥というのは比較的狭い山間を蛇行する酒谷川の内側に開けた町で耕作地が広かったとは思えない盆地状の土地であった。 その酒谷川の流れを受けて川を蛇行させる因となってきた小山に飫肥城が建てられていたのだが、崖が崩れた場所を見た限り『シラス台地(シラス性丘陵)』であることが分かった。

※ 上の写真は飫肥城・大手門通り

飫肥一帯について地質図を見直したわけではないが、都城に近いことから恐らく姶良火山の大爆発時に噴出した火山砕屑物が降り積もった地帯であろうと推測する。 とすれば、2万2千年から2万5千年くらい前の堆積物であり、『シラス台地』であることから土壌の養分は乏しく透水性が良いので米作りに適した土地とは考えられず、飫肥という地名の謂われがイマイチ分からなくなってしまったのである。

飫肥という地名は『倭名類聚抄』(931~938  平安中期)に「飫肥郷」と記されていることから、奈良時代或いはそれ以前から使われていたのかもしれないが、いずれにせよ古くから人々が住みついていたことは確かである。
pict-P1040571飫肥城址大手門から
※ 写真は飫肥城址、大手門を入ったあたり桝形。

平安期に飫肥は奈良・興福寺の荘園となっていた時期があったようだが、戦国期に入ると地理的位置から薩摩の島津氏と宮崎・日向の伊東氏の係争の地となった。

結局、豊臣秀吉に仕えた伊東氏が秀吉の九州討伐で功を挙げ、飫肥に城を築き(初代藩主・伊東祐平・すけたけ)、外様ではあるが徳川期にも飫肥藩は5万1千石を安堵され明治に至った。

しかし先にも書いた通り、『シラス台地』の土地柄ゆえに水田耕作には不向きで、杉を植林することで藩財政を支えてきたと聞いた。  九州で杉と言えば江戸幕府の天領であった『日田杉』、飫肥藩の『飫肥杉』、薩摩藩の『屋久杉』と、これらは九州三大美林と称されるが、飫肥杉は高温多湿な飫肥の風土に合って成長が早く、軽くて油分が多く、しかも弾力性に富むということから造船用木材として重用されてきたらしい。
pict-P1040575・しあわせ杉・本丸跡
※ 写真は、飫肥城址、天守閣跡植わる飫肥杉。

数年前、NHKが朝の連続テレビ小説「わかば」を放映していたらしい。  私は見ていないので全く知らなかったのだが、宮崎と神戸がドラマの舞台となり、宮崎・。飫肥では写真のように木洩れ日が地面の苔を照らす杉林の光景が放映されたとか。 

小高い丘の上の天守閣跡地に家内と二人っきり。  天守閣跡地の直ぐ下には飫肥小学校の校舎と運動場があるのだが、丁度教室内での学習時間だったのだろう、子ども達の声ひとつ聞こえてこない静寂な空間。 私たちが好む雰囲気の場所。 ドラマの舞台とは関わりなく飫肥城址も城下町も落ち着いた感じで気に入った。
pict-P1040582武家屋敷通
飫肥城下町の横馬場通り。 アスファルト舗装の道は仕方ないとして、隙間なく切り取り積み上げられた石垣が並ぶ武家屋敷の町並みは江戸時代の面影を色濃く残しているように思えた。

地元では石垣の石を飫肥石と呼んでいたが、きれいに切れているなど細工の緻密さや見かけから凝灰岩であろうと思うが、きちんとした区割りがみごとであった。

全国に『小京都』と呼ばれる町は多いが、この飫肥も『小京都』と自称していた。 これは「何でやねん」って問うてみたいところである。
飫肥は飫肥でええやないか。 小とは大に対する言葉であって、小pict-P1040583小村寿太郎生家さい、僅か、幼い、劣るなどといった意味のほか謙遜する場合にも用いられる。 はたしてどのような意味合いで『小京都』と言われているのか知らないが、飫肥は飫肥であって飫肥以外の何物でもないことをむしろ自負すべきと思いつつ私たちは城下町を隈なく歩いてまわった。

※ 上の写真は、小村寿太郎の生家。

日露戦争後、小村寿太郎が日本全権としてロシアと交渉し、ポーツマス条約に調印したということぐらいは日本近代史の常識として私も知っていたが、彼が飫肥の下級藩士の出身であることや、身長が156センチと超小柄であったことなど、小村記念館を訪れて初めてpict-P1040585藩校・振徳堂知ったことである。

※ 飫肥藩の藩校『振徳堂』

藩校『振徳堂』は1831年(天保2年)に13代藩主・伊東祐相によって建てられ、藩士子弟は必ず入校しなければならなかった。(徒士以下の子弟も任意により入校できた)

他藩の藩校と同様に四書五経のほか、武芸として柔・剣・槍・砲・弓・馬術に水練も課されたという。

この『振徳堂』で学んだものには小倉処平や小村寿太郎らがいる。 小倉処平は西南戦争時に西郷隆盛の薩軍と協調し、明治政府軍と戦った飫肥隊の将帥で宮崎・延岡の戦で自刃しているが、それより前、佐賀の乱で敗れた江藤新平が飫肥へ落ちて来た時に土佐へ逃がす手助けをした人でもある。



masatukamoto at 17:42│Comments(0)TrackBack(0)

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