January 31, 2012

四国~九州への旅 (12) 佐多岬へ

今日は志布志から大隅半島の最南端・佐多岬へ向かうが、都井岬において以前には営業していたホテルが一軒すらも無くなっていたので佐多岬での宿泊は考えずに車を走らせることにした。

小高い丘の岬に野生馬がいるだけ、しかも交通が不便となれば訪れる観光客が少ないのも致し方ない。 つまりホテル営業は甚だ難しいと、これは商売に素人の私でも分かること。 何だか淋しい気がしないでもないが止むを得ないことである。
志布志から国道448号線を走行していると右手のサツマイモ畑の向こうに小さな丘が目に入った。
pict-P1040631
「うん? あれは古墳ではないか、それも前方後円墳。」

そう感じた途端に車を右折させる準備に入っていた。

農道を通って傍まで行くと大崎町教育委員会が設置した看板があり、『國指定史跡「横瀬古墳」(昭18.9.8.指定)』と記され、『古墳時代中期(5世紀後半)の前方後円墳・志布志湾の海岸線より約1キロ、標高約7メートルのところにある。後円部頂上付近に「竪穴式石室」があるが、明治35年(西暦1902年)盗掘され、その際、腐食した直刀、鎧と曲玉類が出土、内部は朱塗であったという。墳丘及びその周辺より円筒埴輪片、形象埴輪等が出土している。前方後円の完全な形態を残していることで有名。周辺に小円墳があったとのことであるが現在は消除され残っていない。前方辺部に加茂神社があるが、創建、古墳との関係は不詳。昭和52 ・ 53年県教委調査により周濠のあったことが確認されている。地籍調査(昭46)による古墳の面積、長さ、幅、等次のとおり ・ 場所 大崎町横瀬エザイ町〇〇番地 ・ 面積 6417平方メートル 長さ 124メーpict-P1040630トル ・ 後円部 高さ15メートル、最大巾63.4メートル ・ 前方部 高さ13メートル、最大巾63.4メートル ・ くびれ部 巾45メートル』とあった。 

前方後円墳は本州、四国、九州に分布し、別段珍しいというわけではないが、この地にも一帯を支配する豪族がいたのだと確信できる証左のひとつであり、昔に思いを馳せるきっかけともなり、これはこれで楽しいものである。

古墳の写真(下の)を撮影するために車から離れていったのだが、突然ガサガサという大きい音がしたので驚いて晩生の植わった稲田を見ると綺麗な色の羽を広げ、今まさに稲穂を蹴って飛び立とうとするオスのキジと、地味な茶色の羽をバタバタさせているメスのキジを2羽見ることができた。

何もいるはずが無いような所で大きい音がしたものだから一瞬ドキンと心臓が止まるほどに驚いたのだが、キジたちの方でも驚き慌てふためいたのであろう。 私が近づくのにも気づかず農道わきの稲穂の脇にいたのだから。 それほどのどかな所であったとも言えるだろう。 
pict-P1040638A
更に国道448号線を走って行くと内之浦の集落に出た。  

内之浦と言えばロケット発射基地で有名であり、見学できるかどうか分からなかったが、とにかく行ってみようと基地への坂道を上って行った。

ロケットの打ち上げと言えば種子島と大隅半島の内之浦であるが、最近は種子島からの打ち上げばかりであるが、どちらも宇宙航空研究開発機構(JAXA)の施設である。
pict-P1040633
正しくは内之浦宇宙空間観測所と言い、敷地内へ進入するにはゲート守衛所で見学申請を行って、写真のような入構許可証を車のフロントガラスに貼って敷地内を走行することになる。  

構内と言っても幾つもの山の頂を平らにした所に施設が建てられているため、施設と施設を結ぶ坂道の移動は車でないと大変である。
pict-P1040636
写真のような大きいパラボラアンテナだけでも4つか5つかあるし、ロケットの発射台地が2つ、観測用ロケットの発射ドームの他、幾つかの施設建物などが点在しているため歩いて見学というのは少々難しいかと思う。
pict-P1040643
内之浦宇宙空間観測所の見学を終え、再び国道448号線を南へ。  途中から県道を走ることになるのだが、県道での佐多岬までの道のりはとても長いものであった。

上り坂に下り坂、右へ左へとクネクネ曲がる道が続く。 起伏の多い沢山の山の斜面を縫うように道路が延びているのだから仕方がない。 直線に近い道路なら佐多岬までの所要時間は遥かに短かったろうが、その為には一体どれほどのトンネルを掘らねばならないか。 佐多岬に何か大きな産業があるなら話は別だが大隅半島に利益を上げる産業は無く、今後も企業が起こることは考えられないpict-P1040645と私は感じた。

確かにこの日は天気が良くて対岸の薩摩半島に聳える開聞岳の秀麗な山容を何度も眺めることができ、のどかな田舎で眺望に優れた所が何か所もあったことからリゾート地としての開発は考えられるかもしれないが、余程の集客、それも継続的にという条件を満足させない限り幾つものトンネルを掘って道路事情改善のための資金投下は無駄だと思った。

それでも佐多岬に近い大泊まで行くと県道と並ぶように舗装路が二つに分かれ、右手の道路には料金所らしきゲートがあり、その上に佐多岬ロードパークの文字が書かれていた。 が、料金所に人影は無く、ゲート自体が荒れて見え、更に奥へ続く道路上には枯れて落ちたヤシの大きい葉が幾つも片付けられずに放置されている。 低気圧接近中で随分と強い風が吹いていたので、そのために落ちたのだろうと思いつつ佐多岬ロードパークの道を進むことにした。 しかし上り坂のpict-P1040647A道には枯れ枝や崖から崩れ落ちた石や土が放置され、管理されているとは言い難い状態であった。

写真の『31』の標識は北緯31度線を示すものであり、カイロ、ニューデリー、ニューオーリンズ、上海、カラチなどの都市が同じ緯度線上にあることを示している。 

佐多岬ロードパークは鹿児島の企業・岩崎グループの観光開発部門が手掛けた事業のひとつ。 佐多岬へ行くにはこの道路を通る以外に無く、岬の景観と道路、それに北緯31度線を越えるということが佐多岬観光の誘客ポイントであったようだが、現在岩崎グループは佐多岬観光事業からの撤退を進めているという。

佐多岬の観光事業についても岩崎グループについても帰宅してから経緯を知ったのだが、道路や他の観光に関わる施設が荒れていたのは岩崎グループの事業撤退が原因であったのだ。 しかし、岩崎グループを責める気は私には無い。 佐多岬一帯pict-P1040651を観光事業のために自然環境や景観を荒らしまわったならともかく、今回初めて佐多岬を訪れた私だが、一巡したところ観光開発として最少・最低限の手しか加えていなかったように見受けられたからだ。

企業の至上命題は利潤追求である。 先にも書いたが、佐多岬へ観光客を呼び込まねば利益は上がらない。 それも継続して多数のという条件が満たされねばならないが、道路事情を考えれば難しいと結論付けざるを得ないように私は感じたのである。 

話が前後するが、佐多岬というのは写真で島のように見える小山が続く先の方になる。  小山の上に建っているのが白い佐多岬灯台で、最初の灯台は1871年(明治4年)、まだ明治政府の法整備がきちんと出来ていなかった頃の建立だから、九州最南端の岬という以外に、この海域は岩礁多く危険なのだろう。 地質的には中生代の砂泥互層が見られると言うが岬先端へは行ってないので分からない。 
pict-佐多岬合成完了2
上の写真は佐多岬を展望タワーより撮影して合成したもの。  西風がどんどん強くなり、古びて補修もされていないような展望タワーにゴオーゴオー唸りを上げてぶち当たってくる強風に恐れを感じて外へは一歩も踏み出せなかった。  展望タワーでは地元のお婆さんが一人飲み物などの商いをしていたが、果たして1日に何人の訪問客が来るものやら。

駐車場から先は徒歩でトンネルをくぐり、山道を下って御崎神社へ。 そこから更に木々に覆われた山道を登ってpict-P1040652展望タワーに至るのだが、足腰が弱ってきているのだろう、膝が痛くて痛くて悲鳴を上げそうだった。

展望タワーの西北方向に薩摩半島と秀麗な開聞岳が見える。

この展望タワーに登ってくる途中に白いコンクリートの建物があるのだが、以前は飲食物を提供したりお土産を売っていたのだろうが、現在は廃屋同然でトイレのみ使用できる。

先に書いた事業の撤退は仕方ないが、撤退するならば不要な人工構造物の撤去をも含めなければならないのではないだろうか。 どこが管理主体なのか知らないが、町であれ県であれ、或いは国・環境省であれ、行政と岩崎グループの間で建造物の解体撤去も含め、今後の国立公園環境整備について協力し合うべきだと私は考えるのだが・・・  

昼ご飯を佐多岬でと思っていたのだが、結局この日も昼抜きとなった。 前ページで紹介したように大黒リゾートで充分過ぎる朝食を食べたので昼ご飯を食べたいという欲求も起きなかったのである。

岬の観光を終えて再び佐多岬ロードパークの道路を下り、今度は大隅半島の西側の海岸沿いに北上することにする。


masatukamoto at 08:36│Comments(0)TrackBack(0)

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