February 05, 2012

四国~九州への旅 (15) 知覧武家屋敷通り~清水磨崖仏群

さて、この知覧もパンフレットに『小京都』と書いてあり、『小京都ふるさとまつり』なるものも南九州市が企画・実施しているそうな。

全国に小京都が幾つあるのか知らないが、これまで私が訪れた土地で小京都と称している町だけでも片手に余り、弘前(青森)、角館(秋田)、郡上八幡(岐阜)、小浜(福井)、出石(兵庫)、津和野(島根)、竹原(広島)、山口(山口)、大洲(愛媛)と直ぐに思い浮かぶ。  前に書いているが今回の旅で飫肥も小京都と称していたし更に知覧ともなると・・・・・もう何をか言わんやって気分である。

さすがに『小東京』とは聞かないので『アンチ中央(東京)』の私には溜飲の下がる思いがするのだが、小京都ならずとも〇〇銀座などというのが全国津々浦々にあるのは将に笑止千万。 もっともロスアンゼルスには『リトル・トウキョウ』と呼ばれる日本人街があるが、これは論外。 まあいろんな思いがあってのことだとは思うが、それぞれpict-P1040687の町においては良い意味での個性の強調に努めてもらいたいものだ。

この知覧の武家屋敷通りも、なかなかのものであった。

石積みの塀に生垣。 知覧の町割りについては何年頃に為されたのか調べていないので分からないが、町割りと通りの構成から推測すれば戦国期以後、つまり島津氏が絶対的な支配体制を構築してからのことになるのではないだろうか。 これは想像に過ぎないことを断っておく。
pict-P1040689
戦国期以前の城郭は山城が中心であり、国指定史跡となっている知覧城跡も武家屋敷群南方の小山群にある。
城跡と言っても発掘調査により遺構として土塁や空堀が残っている程度で城跡は広く全容を見ることはできない。  

現在は南九州市となっている知覧だが、知覧町教育委員会が作成した資料に空中撮影の写真があるので紹介しておこう。
pict-知覧城跡
ぼこぼこした小山が幾つも見られるが、このひとつひとつの山の頂を平にして、その周囲に土塁を造っていたのだそうだ。 そして土塁に囲まれた、写真で言えば頂きが平らになっている場所に城としての建物を構築していたらしい。 七つばかり見える小山は、それぞれかなり急で、木々が植わっているものの崩れた斜面(崖)を見ることもできる。 ここの地質も飫肥城跡と同じシラスであり、小山と小山の間の谷のような部分が空堀で、将に自然が造った要塞と言えそうだ。(人工的に掘られた堀もあるが)

だから知覧城は戦国期以前に築かれたと考えても良いかもしれない。 しかし町割りについてはどうだろうか。 暇ができたら調べてみることにしよう。 他にやることが多いので果たしてどうなるものやら。  
pict-P1040694戦国期の九州支配を大きく分けると北の大友と南の島津であった。 薩摩の島津から見れば北に人吉の相良、北東に日向の伊東、東に大隅の肝付と領地を接しており、これらとの外交、・武力抗争には腐心していたことであろう。 やがて豊臣秀吉の九州平定による国分けによって落ち着くことになるのだが・・・

知覧の武家屋敷の石垣も綺麗に切り取り削られている。 飫肥の武家屋敷の石垣もそうであったように、見かけ上どうやら凝灰岩のようである。 中に丸い転石を積んだ石垣もあったが、大方が凝灰岩の石垣であるように思った。
pict-P1040691どこから切り出してきたものかは分からないが、姶良か桜島か、それとも開聞岳か、いずれにせよこれらの火山から噴出した砕屑物が堆積したものであろう。

ところで武家屋敷通りであるが、写真のように道は真っ直ぐばかりではなくカギ型に曲げられていたりもする。 これは戦略上の理由から故意に曲げているもので、城郭に見られる虎口桝形と同じように進入する敵に対しての防御用の意味合いが濃いものであると考えられる。
pict-P1040692
そのほか武家屋敷は門構えの内側に、屋敷内へ敵が真っ直ぐ進入出来ないよう石垣と生垣で防御用の盾のようなものを構築していた。

武家屋敷通りをぶらぶら歩き、帰路は県道23号線を歩いて南九州市役所車前の駐車場に戻ったのだが、1時間ばかり、よく歩いた。 

天気が少し崩れ始めたのだが、鹿児島県指定文化財(史跡)清水(きよみず)磨崖仏群があると観光パンフレットで見つけたので立ち寄ることにした。  県道27号から19号を経由し、岩屋公園に向かった。 道路工事中であったり農道らしき道を走ったりで何度か迷ったが何とか舗装整備された駐車場に到着。 

磨崖仏群はきれいな清水川に面する小山の崖面、およそ400mにわたって彫られている。 その清水磨崖仏群の全景は設置されていた下の陶製案内板のとおり広がっている。
pict-P1040713清水磨崖仏(案内板)
この磨崖仏群のある小山も鹿児島県下一帯に広がるシラス台地であり、多分浸食を受けて谷が形成され、その後も風化・崩落を繰り返して急崖面を見せたのであろう。  見たところ崖面を構成しているのは溶結凝灰岩かと想像したが成分が分からないので何とも言えない。 しかし凝灰岩は風化もしやすいけれど、その分切ったり削ったりの作業がしやすいので多くの磨崖仏が彫られたのではないだろうか。
pict-P1040697偲ぶ橋駐車場に車を置いて木々に覆われた道を少し歩くと石橋が見える。 それを渡って対岸の道を進むと磨崖仏群が見え始めるのだ。

この清水磨崖仏群は平安時代の終わり頃から鎌倉・室町時代、そして新しいものでは明治時代に彫られたもの、それらが凡そ200基、主に線刻の供養塔、五輪塔、宝篋印塔が多く、想像していた仏像は少なかった。

また、風化が進んでいるものもあって鮮明ではないものが多かったが下に一部を紹介することにする。
pict-P1040705A供養塔。

浮彫もあるが線刻もある。
pict-P1040709A











線刻の五輪塔。

pict-P1040708A







宝篋印塔の線刻。

供養塔、五輪塔、宝篋印塔は、いずれも故人を供養する目的で建立されるものだが、上に掲載した写真は鎌倉期から室町期に彫られたものである。
pict-P1040701A

この仏像の浮彫2基は明治期に彫られたもの。
pict-P1040702A

pict-P1040700
夏場にはキャンプ場として利用される岩屋公園だけに静寂な山間の公園であった。
写真はとてもきれいな清水川だが、清水の湧水として名水百選にも選ばれたのだとか。 

天気予報でも西から崩れ、九州南部は大荒れとの情報を得ていたので早めに宿を決めて移動することにした。  宿を決めるのはいつも通り家内の役。  宿泊地だけは二人で霧島にしようと決めた。  40年前の新婚旅行でも霧島の宿であった。 そのホテルは現在も営業しており、少々高いが懐かしさを感じて電話を入れた。 だが残念ながら満室との理由で断られてしまった。 (続く)

















masatukamoto at 06:23│Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

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