February 07, 2012

四国~九州への旅 (17) 五木村 

夜通し部屋の窓を叩き続けた雨は朝になっても一向に止む気配がなく、そのため朝食を食べる時間帯もホテルのチェックアウトも遅くして出発したが、吹き付ける風も雨も変わりはなかった。  霧島ロイヤルホテルから宮崎自動車道路・高原インターへ出る国道223号は高千穂峰を巻くように徐々に下って行くのだが、昨日来の雨風によって落ちた茶色い杉の枝葉が路面に積もり、タイヤが至る所でスリップするという有様であった。 

40年前の新婚旅行では宮崎交通のバスに揺られ『えびの高原』に遊んだのだが、天候の回復が遅れているので熊本方面へ向かうことにした。  高原インターから宮崎自動車道に入ったが上り下りとも走行する自動車はほとんど無い。  霧島連山の北側を走行するので、晴れていれば山々の景色を眺めることもできるはずなのだが、残念なことである。  やがて、えびのジャンクションで九州自動車道に接続。 人吉あたりで少し晴れ間が見えてpict-P1040729
きたので急遽人吉インターで九州自動車道を出て国道445号線を北上。

川辺川に沿って走る445号線だが、しばらく走ると道路際に見えていた僅かな田んぼも姿を消して深い谷あいの道を進むことになる。

川辺川に沿うと言っても複雑な山ひだを縫うように道路が続いているため、川辺川に流れ込む沢があれば、その沢の谷奥まで入って再び対岸の山ひだを走ることになる。 勿論、沢をまたぐように橋が架けられている所もあるが、徐々に高度を上げながら辿り着いた所が五木村である。

♪ おどま盆ぎり盆ぎり  盆から先ゃおらんと
  盆が早よ来りゃ 早よもどる

正調 五木の子守唄の歌詞で私たちもよく知っている部分である。 現在でこそ国道が通り車が行き交うが、車が入れなかった頃の山村での暮らしはきびしく、7つか8つになった娘たちは口減らしのために相良や人吉へ子守り奉公に出されていた。 奉公というのは現代的に言えば住み込みで働くという意味であるが、この娘たちの子守り奉公と言うのは住み込みに違いは無いが、ご飯を食べさせてもらえるというだけで給料が支払われるというものではなかった。


七つ、八つと言えば小学校の2年生くらいである。 そんな年端もいかない娘たちが遠く知らない家で働かねばならなかったのである。 両親も辛かったであろうが娘たちの気持ちを思うと・・・・・その娘たちが我が身のつらさを恨み、知らない土地で父や母のことを思いながら口ずさんでいたのが子守唄として伝わったものだと言う。

伝承であるから歌われている歌詞が全く同じというわけではない。 地元の人たちが聞き取りなどの調査で得た五木の子守唄(五木村・頭地資料室「やませみ」ほか)の資料を
熊本国府高等学校パソコン同好会が公開しているのでリンクし紹介しておきたい。 伝承者5人の歌詞は異なる部分もあるが同じ部分もある。 原詩がいずれか分からないが奉公先での娘たちの気持ちをよく表しているので是非リンク先の歌詞を読んで頂きたい。

熊本国府高等学校パソコン同好会・制作『五木の子守唄の歌詞いろいろ』

pict-P1040730五木村イチョウさて、五木村は熊本県と宮崎県が接する九州の脊梁山脈中央部にあると言って良いのだが、この五木村(熊本県球磨郡五木村)の北東に五家荘(熊本県八代市泉町樅木)や椎原(熊本県八代市泉町椎原)、葉木(熊本県八代市泉町葉木)、久連子(熊本県八代市泉町久連子)という集落があり、これらの地から東側の峰を越えて行けば椎葉村(宮崎県東臼杵郡椎葉村)がある。

これらの地は今でこそ道路が通じ自動車も走るが、随分と山奥の地であることは昔も今も変わりは無い。

1185年の壇ノ浦の戦で敗れた平氏で討ち死にした者たち以外は降伏したり捕えられたり、或いは『落人』として逃げ延びたと言われているが、上に掲げた集落は『平家落人の里』として名高い。  先に挙げた五家荘は壇ノ浦の戦で敗れた平清経が落ち延びたと言われ、椎原、葉木、久連子といった集落は、彼の子孫が移り住んだと言われている。

平清経は、平清盛の長男・重盛の三男である。 壇ノ浦の戦で敗れた後、九州・大宰府へ逃れるが源氏方についた緒方惟義(重盛の家人)らに追われ、当時、宇佐神宮の大宮司・宇佐家は平氏に味方していたので宇佐へ逃げたが、豊前・柳浦で入水自殺(享年21歳)したと伝えられており、彼の供養塔も宇佐市柳ヶ浦にあるらしい。

宇佐で亡くなったはずの平清経が遥か南の山奥の地に落ち延びて隠れ棲んだと言うことになるのだが、その真偽は分からない。 
その五家荘から東側の峰を越えて行けば椎葉村があると書いた。
♪ 庭のさんしゅの木 鳴る鈴かけて 鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれよーと歌われる『ひえつき節
』(宮崎県教育情報通信ネットワーク『教育ネットひむか』にリンク)の里、椎葉村である。
しかし、峰を越える・・・直線距離にすれば約20km程度であるが、幾つもの山あり谷ありで今も直接結ばれる道路など無い。

この椎葉村にも平氏の落人が隠れ棲みついていたらしく、屋島の戦において鏑矢を放ち見事に扇を射ち落とした那須与一の弟・那須大八(宗久)が平氏追討のためにやって来た。

しかし、平氏の落人たちは農耕に励み戦意は認められなかったことから那須大八は討伐を止め、滞在中に鶴富姫(平清盛の末孫)と恋仲になり子どもが出来たという。 やがて那須大八は自領へ帰ったが、討伐を取りやめた大八に対し落人たちが感謝して自分たちの名を那須と改姓したと言う。 『ひえつき節』というのは、こうした逸話を歌っているのだそうだ。

これらのことについて断片的な知識しか持ち合わせていなかった私は、五木村も平家落人の里のひとつと思っていたのだが、五木村の観光案内所のお嬢さんから、「五木村は、むしろ落人たちを監視する側だったのです。」と教えられ、今更ながら恥ずかしい思いをしてしまった。

五木村も御多分に洩れず過疎化が進み、人口減少に歯止めがかからないという深刻な問題に直面しているのだとか。 川辺ダムの建設が決まって村が川底に沈んでしまうという問題は、ダム建設の中止が決まり安堵したという村人の声を聞いたが、過去に洪水被害があったとも聞いた。 私は尋ね教えてもらうことが出来るだけ。 村の今後については難しい問題だ。

随分長い文章になってしまったついでに道を間違えたことも書いておこう。  国道445号線を北上するつもりで車を走らせたのだが、道路工事中で行き先表示が明確では無かった(地元民には分かるかもしれないが余所者には分からない)ことや、我がカーナビが10年選手であること、そして天候悪く、しかも山間のため方向を見定めることが出来なかったことなど様々な要因が重なったのではあるが、九折瀬から八原へ向かう道に入ってしまった。

地元の人なら分かるかもしれないが、九折瀬という名前の通り、道路は幾重にも曲がりくねりながらの上り坂で、徐々に道幅は狭くなり車1台がやっと通行できるという状態。 そこへ昨夜からの強風と豪雨のため木々の枝葉が落ち、崖からの落石や土砂が路面を覆うというひどい状況。 これはオカシイと思い始めたのは随分坂道を上ってからのこと。 片方は急崖、もう片方は深く切れ込んだ谷(底までは視認できないが)で私の車ではUターン不可能。 対向車が来ぬようにと願いつつ走る以外になく、かなり走ったところで路肩が谷側に少し広くなった所があり、そこでUターンのため数度ハンドルを切り返して下り方向に向きを変えた。

下りかけた所で黒い物体が車前方を横切ろうと・・・デッカイ野生の日本猿が1頭。 かと思えば崖から角ばった石が転げ落ちてくる。 急坂のためロウシフトで下るもブレーキペダルを踏むと木々の葉でスリップ。 私も怖かったが谷側に座っていた家内はもっと怖かったらしい。 暗いと言っても夜の暗さでは無かったから良かったと、元の分岐点までもどって安堵した。

天候もさることながら、とても写真を撮る余裕が無かったので写真で紹介することが出来ない。〔残念〕



masatukamoto at 18:35│Comments(0)TrackBack(0)

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