February 11, 2012

四国~九州への旅 (18) 肥後の石橋 ( 霊台橋 ・ 通潤橋 )

天候の悪い中で車の移動が続いた。 こんな日は何をしても何処へ行ってもオモシロクナイ。 しかし折角の旅の一日、大事にはしたい。 で、私が旅先で行うのは観天望気。

観天望気というのは諺のようなもので、大昔より人々が経験を積み重ねる過程で天気の変化について確からしい因果関係を見出してきたもので、例えば太陽の周囲に光の輪(日暈・ひがさ)が見えると天気は崩れると言い伝えられているし、同様に月の場合も月暈と言って天気の下り坂の予兆としているようなことである。 

観天望気と言うのは占術のようなもので絶対ということは無い。 占いが「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言われるように、10円玉を投げた時に表が出るのと裏が出る確率が5割であるのと同じと考えて良い。 ただ、観天望気に全く科学的根拠がないかと言えば、そうではない。 日暈や月暈は絹雲が出た時に現れるもので、温暖前線が出張ってくると水蒸気との関係から雲は徐々に分厚く重い状態になり低く垂れ下がって雨を降らせることが気象学で明らかにされている。 だからその当たる確率は5割以上であることは間違いない。 100%確実と言えないのは地域や季節など他の条件が加わることによって一律にとはいかないからである。  

ともあれこの日、雲が南方向(やや東方向)へ移動していたので天気は回復傾向にあると読み、阿蘇の山岳道路を走ることにした。 と言うのは、今夜の宿をどこにするか家内の希望を尋ねたところ、湯布院温泉か黒川温泉に泊まりたいと言ったからなのだ。 家内が電話をかけた時、湯布院のホテルはいずれも既に満室。 黒川では2軒目だったか受入れOKということで宿が決定した。
pict-P1040732それならばと、国道218号線を走って写真の霊台橋をも見学していこうと立ち寄った。

霊台橋は1847年の江戸末期に完成した石橋である。 1847年と言えばペリー率いる黒船来航の6年前のこと。 全長89.86mで、橋上の道幅が5.45m。高さが16.32mと 5 階建てのビルに相当するぐらいの高さである。  アーチ式橋脚に使用されている石は見かけ上、溶結凝灰岩のように思われた。  岩石はその化学組成により分類されるので溶結凝灰岩と断定は出来ないが、石材の細工の感じから、或いは阿蘇に近い場所にあるといったことから阿蘇の火山砕屑物であろうと思う。 

日本の建築構造物は木造が主で石造の大がかりなものは城郭建築での石垣ぐらいである。 石を原材料とする建築文化は古代エジプトや古代ギリシャなどの方が優れているし歴史的にも古い。 アーチ式石造建造物では2000年以上もの大昔に造られたローマの水道橋をはじめ、教会建築などこれまで見学したことについて既に何度も紹介してきた通りである。

日本での小さな石橋は中国の技法を用いて神社仏閣などの庭に造られていたが、アーチ式の大きい石橋では以前紹介した長崎の眼鏡橋が日本で最初のアーチ式石橋である。 これは日本の鎖国時代にオランダから伝えられた技術によって1643年に架けられた石橋だが、せいぜい370年前のことで歴史的には古代ローマに遥か及ばない。      


『肥後の石工(いしく)』は童話作家・今西祐行 《 彼の作品『一つの花』は小学校の国語教科書にも取り上げられている。》 の作品としてもよく知られているが、もともとは加藤清正が熊本城築城(落成1606年)のために近江(滋賀県)から招きよせた『近江の石工』の子孫なのだそうな。

石工というのは字の通り石を細工する職人のことであるが、官衙や寺院などの柱石、或いは石垣・石段や石仏などを思うと相当古い、飛鳥時代の渡来人に石の加工技術を持った者たちがいたのだろうと想像する。 とりわけ長らく都があった奈良・京都には彼らの子孫が多くいたのではないだろうか。 時代は飛ぶが、織田信長が比叡山・延暦寺攻めで多くの堂塔伽藍を焼いた後、明智光秀に坂本城造営を命じた(落成1573年)。 この築城に延暦寺堂塔の石垣や地蔵仏など、ありとあらゆる石材が使われたが、この時に徴用されたのが近江の『穴太衆(あのうしゅう)』であり、京の都の東の関門とも言うべき坂本城から大津城(落成1586年)、膳所城(落成1601年)と城は造り替えられたが平城防御のための石垣造りは『近江の石工』たちによって成し遂げられた。 加藤清正が招聘した『近江の石工』というのは『穴太衆』のことであり、『穴太積み』と呼ばれる石積みは今も大津や坂本で見ることができる。
pict-P1040733通潤橋
写真は1854年に完成した通潤橋。 

この石橋も霊台橋と同様に単一アーチ橋だが、霊台橋と異なる点は通潤橋が水路橋であることだ。 つまりローマの水道橋と同じだが全長75.5mで高さが20.2mあり、飲用水路1本と灌漑用水路2本が通されているらしい。

この
通潤橋の中央部に放水口が写真手前に2ヶ所、向こう側に1ヶ所の計3ヶ所設けてあり、水路管内の清掃のため堰を開けて放水するそうだが私たちが訪れた時には放水してはいなかった。 (青字部分クリックでYou Tube 動画にリンク )

通常、板橋を架けた場合、板上の荷重は両端の支点部分にかかり、板そのものが下方にたわむ。 アーチ式石橋の場合には、荷重によってたわむ力を隣り合う石の押し合う力に置き換え、それらの水平垂直にかかる力全体を橋の両端で支えることによって成り立っている。  したがって橋の両端の地質が岩盤等しっかりした場所でなければアーチ式石橋は造れない。  多分、霊台橋も通潤橋も地質はしっかりした岩盤があるのだろうとは思うが、二つの石橋を見比べると橋の両端下部に違いがあることが分かる。  霊台橋は橋の両端が川床の岩盤にpict-熊本城(1)直接支えられ、川の流れに対する防御の石積みで膨らんだように見えるが、通潤橋の場合は石橋のアーチの両端を支えるために別途な石垣が積み上げられているのが分かる。  

左の写真は以前に紹介した熊本城の石垣である。  石垣上部に重い構造物を載せ、しかも石垣にかかる土圧を抑える理想的な曲線を持つ石垣である。  この熊本城の石垣の積み方と単一アーチ式・通潤橋を支える石垣は同じ曲率を持っているように見える。  石橋を造るには架ける橋の長さに応じて円周率より石を削る角度を求め実際にきちんと面と面が合わさるように細工しなければならない。  しかも通潤橋は水路管の役割を果たすものだから一滴の水が漏れるようなものであってはならず、相当な技術が必要であったはずである。

熊本には沢山の石橋が残っているそうだが、石工たちの優れた技術によって造られた霊台橋と通潤橋を見学できたことは良かった。 現代のように計算機はおろか重機や工作機械も無い時代に、計算から原材料の加工は勿論、架橋まで全て人力で行ったというのだから感服という言葉以外に無い。

いやぁ、見事であった。



masatukamoto at 18:25│Comments(0)TrackBack(0)

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