February 13, 2012

四国~九州への旅 (19) 黒川温泉~国東半島へ

霊台橋に通潤橋という石橋を見学して、今夜の宿泊地である黒川温泉に向かった。  県道141号線から151号線で中坂峠を越えて高森へ向かう。  道路状況は必ずしも良いとは言えず、小雨煙る中、林間の道であったり草原の道であったりを走るばかり。  

途中、前方道路上に黒く動くものを発見。 小雨が煙り木々が覆い茂る道路なので午後3時過ぎでも暗く点灯しての走行で瞬間的には何か分からず、直感的にクマかと思ったものだった。 道路を横切った黒いクマのようなのが、切通しの道路わきの崖、と言ってもせいぜい2メートル程度の高さだが、そこを登ろうともがいていたのである。 車が近づいていって分かったのだが大きく黒いイノシシであった。 イノシシの毛は茶色だと思っていたのだが黒色と言っても良い色をしていた。 車の速度をうんとゆるめ、イノシシの動きをしばし見ていたのだが、前足を必死で動かし、ようようのこと崖を登りきった途端に姿が消えていた。 きっと平らな土地での行動は機敏なのだろう。

やがて阿蘇外輪山を越えて広大な阿蘇カルデラに入り、高森からは根子岳を左にして回り込むように続く国道265号線を進んだ。 晴れていれば阿蘇の山々を眺めながらのドライブになるはずであったが、灰色雲をバックに黒々としたノコギリ刃のような根子岳の山容が見えただけであった。 

何年か前にも訪れた宮地の阿蘇神社の近くを通り、やまなみハイウェーで瀬の本高原を経て黒川温泉に到着。 
pict-P1040737合成修整済(1)
宿は『にしむら』。 写真左手の建物が宿泊棟で右手の建物が露天風呂棟。(撮影は朝6時半)

宿に到着した折は辺りが暗くなっており、少しでも早く部屋でゆっくりしたいと思うほどこの日は疲れていた。

宿の造りは民芸調であったが、ことさらに民芸風を強調して造り飾ったということがありありと分かり、ちょっと頂けないなあというのが第一番目の感想。  案内されて入った部屋の狭さに驚いてしまったのが第二番目の感想。  ドアを開けpict-P1040739て入って直ぐ脇に狭い和式便所(一応水洗ではあるが)。 畳敷の部屋の奥に洗面台が設置してあり、
ガラス窓がある。 和室は江戸間(田舎間)の6畳だったろうか、2面が壁なので一層狭く感じられた。 洋式便所もあるが共同で、これも狭い。 食事は食事処で供されるが特記するほどのものはない。 

温泉の泉質はナトリウム塩化物硫酸塩泉。 湯は殆ど無色透明無臭で少し塩味がする。 風呂は宿泊棟と写真の露天風呂がある。

露天風呂は川に面しており、せせらぎを耳にしながら湯に浸かり、鮮やかに色付いた紅葉を愛でると、なかなか風雅なものである。

pict-P1040741
さて、朝ご飯を頂いてチェックアウトの際、クレジットカードでと言うと扱っていないのだと。 これが第三番目の驚き。

クレジットカードを取り扱うかどうかは個々の店舗の勝手ではあるが、カードが大衆化した現代、しかもこのところ黒川温泉は人気の高い温泉で訪れる客も多い、にも拘らずキャッシュオンリーだと。 福沢諭吉さんが4人財布に入っていて良かった。 

が、温泉を含めて各地のホテル・旅館を利用してきた私には、この旅館の施設・設備その他を総合して評するに、提供された事物の対価としては高いと言わざるを得ない。 特段のサービスの提供を受けたわけでもない。 黒川、黒川という評判を家内も耳にしていたから黒川温泉を宿泊地に選んだのであろう。 勿論、黒川温泉には他の旅館もあるのだから黒川温泉全体を語っているのではない。 この旅館を再び私が利用することは無い。 これは確かなことである。

黒川温泉を後にして、やまなみハイウェー、つまり県道11号線を湯布院に向けて走った。 天候は回復傾向にあり、昨日は低く垂れ込めていた雨雲も今朝は高く、ところどころ青空が見え始めている。 
pict-P1040744長者原
写真は下ってきた方向を振り返って撮影したもので、一面枯草の草原になっている長者原と、その向こうに雲で覆われているが九重連山のひとつ三俣山(1744.67m)の山容が見える。 三俣山は本峰、南峰、北峰、西峰と四つの峰から成っているが、どこから見ても三つの峰があるように見えるので三俣の名前がつけられたらしい。

九重高原を越えて湯布院の町に車を入れたのだが折悪しく日曜日ということもあって観光客がごったがえし、小さな温泉町の狭い道路は人と車で大渋滞。 公共浴場のほか旅館のお風呂も立ち寄り湯として入浴できるので
町を一巡したのだが何処も駐車場は満車。 せめて金鱗湖ぐらいと思って行ったが駐車場は無く、湯布院の町へ
pict-P1040745杵築城門
寄ってみたものの結局渋滞の車列に並んだだけ。 仕方なく湯布院インターから大分自動車道に入って国東半島の石仏巡りに向かった。

先ずは杵築城(きつき・じょう)へ。 元々の杵築城は室町時代に建てられたらしいが、八坂川と高山川に挟まれ守江湾に突き出た小山に築かれた城郭は素人目にも堅牢に見える。

写真は坂道を登り、天守閣に向かう途中に建つ城門。

杵築市は国東半島の基部にあって別府湾の北側に位置し、南側には大pict-P1040748分市、西側には別府市がある。 現在は大分県であるが、昔は豊後の国である。 豊後と言えば大友氏を思い浮かべるが、この杵築は鎌倉時代には豊後国八坂郷木付荘と呼ばれ、大友氏の所領であったらしい。

大友氏というのは初代当主とされるのが大友能直(よしなお)で、元々は相模国足柄上郡の大友郷を領する幕府の御家人であったが、豊後・筑後守護職として赴任したことが基となって大友氏が豊後に根を下ろすことになったらしい。 この大友氏の2代目当主が親秀(ちかひで)で豊後大野を拠点にしていたが、その六男である大友親重(ちかしげ)が木付pict-P1040747杵築干潟庄に築城したのが城下町形成の始まりで、地名をとって大友から木付に氏を改めたと伝えられている。

現在杵築城と呼ばれているのは 1394 年に木付氏4代当主・頼直が移築、竣工させた場所で、当時のものは石垣が遺構として残るだけである。 ちなみに杵築城という呼び名は江戸時代になって、木付を杵築と書き表したためと言われている。

天守台からは八坂川の河口部と広々とした守江湾の干潟が見渡せる。


masatukamoto at 06:09│Comments(0)TrackBack(0)

トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
記事検索
月別アーカイブ