February 26, 2012

四国~九州への旅 (20)熊野磨崖仏

杵築城と僅かに残る武家屋敷を見学した後、家内が「私も見たい。」と希望していた熊野磨崖仏へ車を走らせた。

熊野磨崖仏などについて当ブログの月別アーカイブ『May 2008』をクリックすれば、『九州・大分、福岡~韓国へ』のページ(【17】【18】など)に私が前回訪れた時のことを書いている。 ―――参考までに―――

磨崖仏が多く残る国東半島は、宇佐市と別府市を結ぶ線(宇佐別府道路)から東側に丁度焼けたお餅が膨らむような形に広がっている。 国東半島の航空写真で見れば50円玉を置いたような形で、中央の穴にあたる部分が両子山(ふたごやま、721m)。 新生代の第四紀・更新世(180万年前~50万年前)の頃さかんに活動していた火山らしい。 阿蘇一帯の火山活動が活発であったのが30万年前から9万年前の頃で、阿蘇の大カルデラの誕生が9万年前の大噴火と言われているから、両子山は阿蘇の大噴火やpict-P1040749熊野修整大陥没の一部始終を見ていたのであろう。 
航空写真で見るかぎり、両子山の山頂
を中心に浸食谷が放射状に綺麗に伸びているので100万年前頃は秀麗な山容を見せていたのだろうと想像する。


写真は今熊野山・胎蔵寺(浄土宗)。 

3年半前に来た時も不動明王(石造)が境内に鎮座し、参詣者によって小さな金箔が貼られていた。 今回は坊守の女性から「ご苦労様です」と声をかけられ金箔を頂いたので家内とともにお不動さんの体に貼りつけた。 しかし、3年もの月日が過ぎた割には金箔の貼られた面積が少ないような・・・。

それはそれとして胎蔵寺の山号は今熊野山である。 京都には今熊野という地名の町があるし今熊野山は東山三十六峰のひとつでもある。 京都七条通を東に見た時に見える峰が阿弥陀ヶ峰(京女キャンパスの上)で、その南側に見えるのが今熊野山。 東寺で真言密教の秘法を修法していた弘法大師が熊野権現のお告げを受けて今熊野山麓にお堂を建立した(807年)のが始まりとする今熊野観音寺がある。 
pict-京都・東山一部地図
弘法大師が受けたお告げというのは、「この山に1寸8分の観世音菩薩がおられるので御堂を建ててお祀りせよ。観世音菩薩像は天照大神が造られ衆生救済のために来現された。私は熊野権現でこの地の守護神になる。」という白髪老人の言葉だったとか。

このお告げで気付かれた方も多いことと思う。 天つ神である天照大神と仏教における菩薩・観世音が同一・一体のモノとして語られているのである。 日本古来の神信仰と外国から伝えられた仏教信仰が融合しているのだが、こうした神仏習合思想が具現化された初のケースが大分県の宇佐神宮に神宮寺(弥勒寺)が建立(738年・天平10年)されたことである。  
弘法大師(空海)が真言密教を日本で伝え広めた真言宗宗祖であることを知らぬ人はいないだろう。 今熊野観音寺の寺伝が正しいとすれば、弘法大師自身が神pict-胎蔵寺かけ仏仏習合思想を認めていたことになる。 日本に仏教を持ち込んだのは渡来人に間違いはなく、彼らとの交流を考えれば5世紀には伝わっていたのではないかと想像するが、伝来でなく仏教公伝としては6世紀(538年説・552年説)とされている。 

※ 写真は今熊野山・胎蔵寺の懸仏(かけぼとけ・弥陀三尊、青銅鋳製、径54cm、県重文)で、「六郷本山今熊野御正体也」と刻まれ、建武4年の銘がある。(1337年) また、右側の仁王像(石造)は文久3年(1863年)の作である。  ≪熊野磨崖仏管理委員会パンフレットより≫

仏教伝来以前の日本では、万物には神霊が宿り、あらゆる現象はそれら神霊の為せる業とするアニミズムが広く信じられ、霊魂や精霊との交渉を巫女が行う巫術も人々の支持を集めていた。 こうした超自然観から日本の山pict-P1040750熊野修整(2)岳信仰が生まれ、各地の山が自己修養の行場となり、それらが仏教思想(密教)と習合し、やがて修験道として確立されてきた。

参考までに熊野信仰の聖地・熊野三山は現在の本宮大社、速玉大社、那智大社のことである。 平安時代(1000年頃)には浄土教が広まり神仏習合思想が一層広まった結果、本宮大社の主祭神・家都御子神(けつみこのかみ)が阿弥陀如来、熊野速玉大社の主祭神・熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)は薬師如来、那智大社の主祭神・熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)は千手観音とされている。

このようにして自己修錬の行場であった熊野三山は同時に浄土を求める地ともなっていった。 浄土とは仏に導かれ自から悟りを得る菩薩の地であり、阿弥陀如来は西方浄土、薬師如来は東方浄瑠璃世界、観音菩薩は補陀落山とされている。

胎蔵寺の山号は12世紀頃に住職が熊野に詣でて得心し、磨崖仏を彫って今熊野山と称するようになったとか。 奈良時代末期から平安時代にかけ、国東半島には多くの天台系密教寺院が建てられ、僧たちの経典学習や修行が活発に行われた。 これらを総称して六郷満山と呼ぶ。 当時の寺で現在も残っているのは少ないが、磨崖仏など石彫物は六郷各地に沢山残っており、修験者は写真のような切り立った山稜を現在も行場としている。 
pict-P1040776両子山
修験者が霊場めぐりに出発することを峰入りと言うが、その出発の地とされているのが今熊野山・
胎蔵寺であり、熊野磨崖仏は胎蔵寺から更に登った所に彫られている。

前回訪れた折は蒸し暑いほどの気候で、知らない山道に長い石段を一人で登っていたため随分の疲れを感じたが、今回は家内と二人だったし、秋も深まり涼しい気候だったので膝の状態が良くない割には楽に登ることができた。
pict-P1040752熊野磨崖仏石段修整胎蔵寺からは少しばかり山道を登るのだが、その先には写真のような石段が続き、注目すべきは石段の上に鳥居が建っていることだ。

この石段を登れば磨崖仏が・・・と思いきや、どっこい、そうは簡単に仏さんは顔を見せてはくれない。 写真の石段の先には更に黒っぽい安山岩質の大石が乱積みされた段々が続くのである。 数えてはいないが百段(99段かも)あるらしい。 この石段のため前回は喘ぎがひどく、家内には大変な石段であると話していたのだが・・・
「これしきの石段、どこがしんどいの?」
今回馬鹿にされてしまったが、確かに前回に比べると遥かに楽ではあった。

この石段については権現と鬼の話が伝えられている。 村人を食べたくなった鬼pict-P1040754熊野磨崖仏(3)に対して権現が「日が落ちてから鶏が鳴いて朝を告げるまでに百の石段を積むならば良し。出来なければお前を食べる。」と言ったとか。 そのため鬼は陽が暮れてから西叡山まで出向き、大石を堀だし担いでは運んで石段を築いていったらしい。 村人を食べたい鬼は必死で作業したので残り一段となったところ、権現は、これではいかんと鶏を真似て鳴いたんだと。 もう一段というところで鶏の声を耳にした鬼は悔しくて腹が立つものの、自分が喰われるのはかなわんと大石を放り投げて一目散に逃げて行ったんだと。 そのために九十九段だとか(数えていないが)。

この黒っぽい安山岩質の石積み段を登りきる手前左手の岩面に写真の磨崖仏・不動明王が見える。
pict-P1040757岩面の左側に不動明王、右側に大日如来が彫られている。

この磨崖仏から少し石段を登りきったところに奥ノ院、熊野神社の祠堂が建っている。

胎蔵寺に熊野神社、不動明王に大日如来の磨崖仏と鳥居と、これは神仏習合事例のひとつであるが、寺社の格式や規模、それに歴史的に有名なものとして奈良の春日大社と興福寺の関係を挙げることができる。 この二つの寺社は藤原氏の氏神氏寺である。 明治維新の神仏分離令によって起きた廃仏毀釈の嵐の中で興福寺は伽藍の破壊や沢山の寺宝の散逸など壊滅的打撃を被り、現在は寺塀も無く奈良公園の一部のようになっているが、東金堂や五重塔、北円堂や南円堂が残っているので往時の壮大な伽藍を想像することはできる。 また、 奈良を訪れる人たち全てが詣で見学する寺に東大寺があり、大仏やお水取りについてはよく知られている。 このお水取り行事が行われる二月堂のそばに手向山八幡宮が祀られているのだが、この八幡神は東大寺の守護神として大分の宇佐八幡宮より勧請したもので、これも神仏習合の例である。
pict-P1040767熊野信仰では京都に、神仏習合では奈良へと話が飛んでしまったが、国東半島に戻ることにする。   
写真は元宮磨崖仏。 覆屋が建てられており雨水からの保護は出来ている。 室町時代の作ということだが、一部が剥落したのだろうか欠けている。
写真右手より、毘沙門天、矜掲羅童子(こんがらどうじ)・・・小さい、不動明王、持国天、地蔵菩薩。

国東半島に磨崖仏が多く彫られ残っているのは
六郷満山と呼ばれるほど多くの寺院や行場があって宗教活動が盛んであったということのほか、両子山火山が活発に活動していた頃に噴出された火砕流を含む火山砕屑物が堆積した地質であるため容易に彫刻出来たことも理由のひとつに挙げられると思う。  国東半島で見た磨崖仏にしろ仁王像にしろ石造の物は凝灰岩ばかりであった。 磨崖仏は小さな礫を含む岩体だったので凝灰角礫岩に分類しても良いかもしれない。 (つづく)



masatukamoto at 08:18│Comments(0)TrackBack(0)

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