March 18, 2012

I 氏と行った福岡の旅 2012年1月 〔4〕

出張で長崎へ向かう I 氏は遅れずに出発したのかどうか気になりながらも、連日遅くまで、完全にアルコール浸けの私たちは仕事が無いのを良いことに朝寝坊を決め込み・・・

なーんてことは無く、大将 I 氏も私も午前7時には起床。 7時半には朝食を頂き、9時には行動開始用意OKの状態になっていた。
この日は天神へ出て西鉄で柳川まで。 私は何度も訪れているが大将は初めてなので楽しんでもらえるだろうと思い案内した。
pict-img135西鉄福岡(天神)駅で写真のような柳川(川下り)と大宰府を巡る周遊切符を買い求めてエキスカーションに出発した。 この切符は2800円。 購入は1ヶ月前から可能で、使用開始日を含めて有効期間は2日間。 但し、乗降駅は福岡(天神)、大宰府、柳川の三駅が指定されている。

この観光切符を買わずに一般料金で同じコースを巡るとすれば幾らかかるのか、ちょっと調べてみた。 西鉄電車の料金は福岡(天神)・柳川間が830円。 柳川・大宰府間が650円。 大宰府・福岡(天神)間が390円なので合計1870円となる。 柳川での川下りの船賃が1500円なので合計2870円となり観光切符の方が70円安いということになる。 

なーんだ、たったの70円かと思われるかもしれない。 そこは良くしたもので、観光切符には割引券が沢山付いているのだ。 例えば、柳川では藩主・立花家の別邸『御pict-img136花』(庭園・松濤園)の入園料や北原白秋の生家の入館料、うなぎ蒸籠蒸しの代金、西鉄タクシーなど、それぞれ1人当たり50円の割引きとなる。 だからタクシー料金が仮に500円であったなら、4人で乗れば300円となり一人分は75円。 セコイ計算をするが、割引き制度があるなら利用すれば良いのである。 業者も損をしてまで割り引くことはないだろう。 割り引いても尚且つ儲けがあるはず。 

福岡(天神)から柳川までは特急で46分かかるのだが、大牟田行きの特急が30分に1本なので1列車乗り遅れると時間のロスが痛い。 今回も丸々30分間を駅ホームで潰してしまった。

柳川駅改札前に川下りの案内所があり、乗船場までの送迎車が来るまで待合所で待つことになったが、以前にはなかった施設である。 この隣に観光切符のお土産引換券で有明漬(粕漬)をくれる土産物店があるのだが、私たちが訪れた時には、うなぎのポリット(うなぎの骨の唐揚げ)をくれた。 ちなみに韓国新幹線車内でポリポリ食べたが、油が・・・。 お腹が空いていたので残さず食べたけど。
pict-柳川川下り地図
柳川観光開発の川下りは松月乗船場から始まり、ほぼ1時間余り柳川の町に縦横に掘られた水路を巡るのである。 柳川市や大川市辺りは筑後川が有明海に注ぐ沖積地であり、戦国期には湿地帯が広がり攻防が有利にも不利にもはたらいたとの史記を読んだように思う。 

川下りの下船場は立花家の別邸『御花』の庭園・松濤園を回り込んだ所にあって、直ぐ前に「福柳」「六騎」「若松屋」と三軒のうなぎ屋が並んでいる。 「六騎(ろっきゅ)」はこれまでに何度行ったか、この日は定休日だったので隣の「若松屋」へ入った。 この店は三度目になるが、「六騎」も「若松屋」も50円の割引券が使える。 うなpict-P1040891ぎの蒸籠蒸しが肝吸いをつけて、上が2400円だったかな。 50円割引で2350円。 大将が払ってくれたので確かな金額は分からない。 柳川の名物だし、博多から訪れ川下りを終えると丁度昼時になるので少々高いが昼ご飯にうなぎの蒸籠蒸しという具合になる。 そのためかどうか知らないが、柳川はうなぎの消費量日本一らしい。 

食後、北原白秋の生家(写真)へ。 柳川を訪れるたびに見学しているので今回は大将だけに入館してもらった。

随分以前だが、若い連中を連れてきた時に北原白秋という名前を知ってはいたが、白秋作詩の童謡を知らないと返答された時の愕然とした記憶が甦ってしまった。 あの時はダークダックスが歌う白秋の童謡集のCDを買って与えたが、今は皆が母親になっている。 はたして子どもたちに童謡を聴かせてやってくれただろうか。 
pict-博多・柳川・太宰府・志賀島039
白秋生家見学の後に『御花』(写真)を見学。 ここも大将にひとりで巡ってもらい、その後タクシーで柳川駅へ。 特急で西鉄二日市まで行き、ここで乗り換えて大宰府駅まで。 

大宰府駅から天満宮への参道は結構な人出であった。

京都・北野天満宮、大阪の天満宮、防府天満宮、それに大宰府の天満宮、その他全国の天神社の祭神は菅原道真、つまり天神様は学問の神と崇められているため、この時期いずれの天神様も受験を控えた若者たちで賑わうのだ。
pict-P1040892福岡県・大宰府天満宮A受験とは縁遠くなった私たちだが、大将にとっては初めて参詣する大宰府天満宮にどんな思いを抱いたろうか。 

人間であった菅原道真。 学問に秀でた人だったから若い頃からトントン拍子に出世して右大臣まで上り詰めたが藤原氏の力が強かった時代であり、901年(延喜元年)藤原時平の讒言によって道真は大宰府の権帥に左遷されてしまった。 大宰の帥は親王がなるが権帥とは実質的に仕事を行う副長官であり、官位では右大臣が従二位に対して大宰帥は従三位。 しかも都ではなく遠く離れた朝廷の出先機関の大宰府である。 この時、道真の子どもたちも流刑となり、道真は903年に大宰府で亡くなってしまうが、道真の死後、都では藤原時平が39歳の若さで急死、日照りが続き疫病流行と天変地異が続いたpict-博多・柳川・太宰府・志賀島048AAため、醍醐天皇が勅使・藤原仲平を大宰府に遣わし、道真のお墓に天満宮を建立させた。 しかし、その後、醍醐天皇の皇太子が亡くなり、次の皇太子も亡くなるという不幸が続いた。 更に宮廷に落雷があり多くの死傷者が出たため、これはいよいよ菅原道真の怨霊の祟りと畏れられ、947年に京都・北野に天満宮が祀られた。

当初は道真の怨霊を鎮めるための天満宮建立であったが、いつの頃からか学問の神、受験の神と、人間・菅原道真が神様になってしまった。 
 
人が亡くなると、その荒ぶる魂を鎮めるための神式祭事を行ってきた日本人の宗教観の根源は畏敬の念ではなかったろうか。 森羅万象、ありとあらゆる物や現象に対して畏れと敬いの気持ちを持って接する、この姿勢を私は大事だと思っているのだが・・・   長くなるので止めておこう。

ともかくも大将を大宰府天満宮までは案内することができた。 時間の関係で九州国立博物館を案内するまでには至らなかったが、博多からの One day trip としては上出来であろう。 と、私は思うが、果たして大将が喜んでくれたかどうか、ソレが最も大事なのだが・・・

明日から私は韓国へ、大将は広島・原爆ドームの見学にと別行動を取ることになるので今夜が博多での最後の夜となる。 休暇が長ければもっと案内するのだが、最後の晩餐は中洲の銀寿司で楽しむことにした。 寿司屋の大将を寿司屋に連れて行くというのは何とも芸の無いことではあるが、所や人が変われば料理の素材や盛り付けも変わる。 何か得てもらえることがあるかもしれない。 もっとも還暦を過ぎた大将のことゆえ、やっぱり失礼だったかも。 まあ堪忍してくれ。ぶっははははは 




masatukamoto at 11:13│Comments(0)TrackBack(0)

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