May 23, 2012

韓国・慶州へのワンデー・トリップ (つづき)

武烈王陵を訪れて次に向かう先は金庾信将軍墓である。

金庾信(キムユシン)将軍は武烈王(ムヨルワン)の忠臣であり、660年に5万の新羅軍を率いて唐の13万の軍勢との挟撃によって百済を滅ぼした知将とも勇将とも称されている人である。 百済の階伯将軍が決死5千の兵を率いて対したのが金庾信将軍であった。

金庾信は595年に生まれ、15歳で花郎(ファラン)となり学問と武術の修錬に励んだとされ、後年、武烈王となる金春秋も花郎の出身であったという。 花郎とは新羅の真興王の時代(540~576)に確立された青年貴族の教育制度であるというのが一般的解釈になっており、韓国時代劇テレビドラマでも化粧を施した美少年戦士集団とpict-P1050046Aして描かれている。 
だが、「李氏朝鮮王朝時代(1392年~)には、花郎は男芸者を意味する言葉に変っている」ことを挙げているものもあるし、朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月休戦)の時に、韓国・李承晩大統領が青少年の愛国心の育成と高揚のために花郎と結び付けさせたとの説もある。
つまり、果たして花郎がどういったものであったかは史料の少なさから推量できても断言はできないというのが実際のところのようだ。 諸説あるが、興味があればURLを挙げておくので参考にどうぞ。
http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/whis01.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/3249/hwarang.html

写真は金庾信将軍墓の墓域に入るためのチケット買い、石段を上がった所にある石碑。 新羅太大角干の表題の下に金庾信の業績などが書かれている。 新羅でも同じだが聖徳太子の冠位十二階と同様に等級と京位(冠位)が定められ、1等級の伊伐飡(イボルチャン)=角干を筆頭に17階級の冠位があったそうな。

ところが、この金庾信将軍に関しては角干ではなく大角干、その更に上の太大角干という冠位が与えられているpict-P1050035Aように、彼に対しては破格の扱いなのである。

写真は金庾信将軍墓への墓参道に建つ門。

朝鮮の三国時代、高句麗・百済・新羅のいずれもが統一を願っていたが、それは他国を併呑してしまうという軍事力による統合であり、そのため三国間は常に緊張状態にあったことを既に書いてきた。

経緯はあるが、554年には羅済同盟を解消して新羅と戦った百済の聖王が戦死。 新羅と百済の対立が続き、やがて百済と高句麗は麗済同盟を結んで新羅に圧力を加えていった。 この時は新羅の善徳女王が中国・唐に救援を求めるも拒否され不安定な国内外の政情の中で善徳女王が亡くなる。 この折に金廋信は金春秋と共に真徳女王を擁立して親唐路線(羅唐同盟)を推進、654年に真徳女王が亡くなると金春秋を第29代新羅王・武烈pict-P1050036A王として即位させ、660年に唐と共同して百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼして三国の統一を成し遂げた。

上の門を入って墓参道を少し歩いて行くと写真のような金庾信将軍墓が見えてくる。

pict-P1050040A墓前の左手の墓碑には『新羅太大角干金庾信墓』と彫られているが、先にも書いた通り新羅の冠位で最上位は角干であり、『大』の称号が与えられたのは百済を滅ぼした功績(660年)によるもので、第30代文武王(武烈王の子)の時には高句麗を滅ぼした功績(668年)によって『太』の称号が加えられた。

朝鮮半島の統一を果たす大きい役割を果たしたということでは『大』『太』の称号を授かるのも当然と言えよう。

ところで、このお墓の右手、写真の墓碑と対を為す場所にも墓碑がある。 pict-P1050038Aその墓碑には『開國公純忠壮烈興武王墓』とあるのだが、墓の字の辺りが汚れていたのでよく見ると、陵という字が彫られていたように見えた。

これは、ううん? ええっ?墓と陵はちょっと意味が違うのである。

金庾信が彼の功績によって特別枠によって『大』『太』の敬称を授かったことは紹介したが、更に後の時代、新羅第42代王・興徳王(在位・826年~836年)によって『興武王』とされているのである。 追贈ではあるが『王』となれば陵との表示でも良いかと思ってみたりしたが、これはよく分からないままになっている。

金庾信が新羅の国や王室に果たした功績は大きいが、彼の妹は武烈王の夫人となり、彼自身も武烈王の三女pict-P1050044を夫人に迎えている。 そして武烈王と金庾信の妹との間に出来た子が文武王となっていることから考えれば功績以上の待遇が例え彼の死後であっても与えられることについて特段の不思議もないのかもしれない。
 
金庾信将軍墓も形状は円墳であるが、土山が崩れないように周囲をグルッと石で囲んだ立派な墓である。

pict-P1050043Aしかも墓を囲む石板には干支の動物が12体刻み彫られているのだ。

これは王の墓よりも立派と言えるかもしれない。

はて、これは何だったろうか。

上からサル(申)、ヒツジ(未)、タツ(辰)だったように思うのだが・・・
pict-P1050041A











これの続きはまた。

masatukamoto at 12:49│Comments(0)TrackBack(0)

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字
 
 
記事検索
月別アーカイブ