May 26, 2012

韓国・慶州へのワンデー・トリップ (おわり)

慶州は、よく『屋根のない博物館』と称される。 それほどに遺跡・文化財がゴロゴロ転がるほどにあるという地域なのだ。 日本で例えるならば奈良のような所である。

以下、國立慶州博物館の展示品を紹介しながらワンデー・トリップのまとめとする。 
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写真は新石器時代の磨製石斧(蔚珍・厚浦里遺跡)≪國立慶州博物館カタログより≫

これは余談だが、奈良県の土地造成や土木・建築に関わる業者は工事を請け負った地区の地下に遺物・遺跡が出土しないよう工事着工前に真剣に祈るらしい。 この業者が祈る気持というのも分からなくはない。 工事中に土器等の遺物が出土したなら文化財保護法により届け出ることが義務付けられており、届出によって文化財pict-img170A担当官による試掘等の確認調査が行われ、遺跡らしいと判断されたなら更なる調査発掘作業に入ることとなる。

確認調査は早くても4~5日はかかり、通常1週間から2週間を目途としているが、この間の業者の工事はストップしなければならないし、確認調査の費用は工事請負の業者と施主の負担となるのだから真剣に祈るという気持ちも分かる。

写真は新石器時代の櫛目文土器(金泉・松竹里)≪國立慶州博物館カタログより≫

埋蔵文化財包蔵地として遺跡等が埋もれている可能性があるということを示した地図が建築課や文化財課にはあるはずだが、発掘される確率が高いという言わば占いのようなもので、当たるも八卦当たらぬも八卦と同様なのである。 しかし、遺跡というのは平面的広がりを持つものだから、1坪程度の調査では済まない。 また地層には累重の法則があるように、新しい遺跡の下部に古い遺跡が重なっている場合もある。 更に、遺跡というのは予想し得ない所で発掘・発見される場合もある。 
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『金冠』(金冠塚・5世紀)≪國立慶州博物館カタログより≫

我が家は丘陵地の端に位置するが、谷あいになっている下の地域から棚田になっていた丘陵斜面の造成工事が年を追って徐々に行われてきた。 我が家の建つ丘陵一帯は松を含む雑木林だったが棚田耕作はそれ以前から行われていた。  ひな壇状の棚田を宅地に造成する工事がいよいよ我が家の下まできた或る日、工事現場を見た私の目に相当数の土器片が散らばっているのを確認したのだった。 我が家からは6mばかり下の現場に降りて土器片を見たところ、いずれも須恵器の皿や高坏であった。 工事業者は当然届け出るだろうが、まさか丘陵斜面でと、面喰らったに違いなかったと思う。 黙って工事を進めても一目につかない分からない場所である。 しかも既に土器片を含めた土を掘り上げ盛っていたので急遽県の橿原文化財研究所に調査を依頼した。

研究所からは偶然私の後輩がやってきて調査を開始することが決定。 以後10日ばかり調査を行った結果、平城京で使用する須恵器の窯跡の灰原であろうということであった。 (この大量の土器片出土に関して工事業者からの届け出があったとは聞いていない)

ここ掘れワンワンではないが、現在の奈良市は平城京を地理的に包含している爲どこを掘っても遺跡を掘り当てる可能性が高く、そうした意味合いでも慶州とはよく似ていると言えるかもしれない。
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何と言っても慶州は新羅千年の都であった土地なのだから。

写真は國立慶州博物館の正門を入った所から考古館を撮ったものだが敷地が広く、屋外に展示されている文化財も多い。

展示のための建造物は上の考古館のほか、美術館、雁鴨池館、特別展示館がある。 また、子ども達のための博物館も用意されている。

私は博物館めぐりを随分してきたが、日本で言えば東京、京都、奈良、これらを訪れる場合、2~3時間を限度とpict-P1050074Aしている。 理由は簡単。 頭・目・足が疲れて体がもたないのだ。 しかし、韓国で言えば國立中央博物館とか、各国の首都にある博物館は頑張って4~5時間、時に6時間を充てることもある。 或いは2日間に分けて連日通うとか。

これも理由は簡単である。 国内の博物館なら健康であれば何時でも何度でも行くことができるが、外国の博物館・美術館の場合そうはいかないからである。

新羅の石塔や石仏造りが盛んになったのは三国統一された頃、つまり7世紀頃からだが、新羅の石塔は写真のように高い基壇に三層の塔身に屋蓋台、それに欠けているが相輪pict-P1050080で成り立っているのが特徴である。 

大きい小さいに拘らず何枚もの石を積み上げて組み合わせて行くという手法であり、大きい石塔では前ページで紹介した芬皇寺の三層の石塔のように安山岩を板状の磚(かわら)として積み上げたものがあり、写真のように花崗岩を細工して積み上げたものもある。

雁鴨池館前の庭にある写真の石塔は相輪部までの完全な形で三層石塔を見ることができる。

下は崇福寺の双亀趺と後ろに見えるのは鐘閣に吊り下げられている聖德大王神鐘である。
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2匹の亀は碑文の基壇で崇福寺址にあったもの。 碑文には新羅第38代・元聖王(ウォンソンワン・在位785~798)の冥福を祈った新羅末の文人・崔致遠(チェ・チウォン)の文が彫られていたらしい。

聖德大王神鐘は『エミレの鐘』とも呼ばれているとか。 エミレというのは鐘の音が子どもの「お母さん」と呼ぶ声に似ているところからだと言うのだが、これは私には分からない。 梵鐘についても前ページで芬皇寺の鐘を紹介しているので参考までに。

屋外展示の石仏についても少し紹介しておこう。
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この仏頭は慶州・南山の鉄瓦谷にあったもので8世紀末から9世紀初めの統一新羅時代の作である。 高さが1m53cmで重量は1.7t。

仏頭の高さが小柄な人の身長に匹敵するのだ。 いったい如何ほどの仏像だったのか、これは大いに興味のわくところだが南山の鉄瓦谷に胴体となるものは発見されていないのだと。

観音菩薩立像の写真だが、頭部は早くに(日帝強占期とカタログには表記)國立慶州博物pict-P1050085A館に移されていたが、胴体は慶州・狼山西麓の陵只塔のあたりに埋まっていたらしい。
それが1975年に同一のものと分かり、更に蓮華座も発見されて一体像となったのだとか。

宝冠の仏像は風化して見れないが、左手に浄瓶をぶら下げていることから観世音菩薩像に違いないと判断したらしい。 が、ううん?観音さんは衆生を救うために相手によって33の姿に変身するってことは知ってるが、浄瓶たるものを持ってたのだろうか。 気が付かなかった。

pict-P1050086最後は、獐項里の石像仏立像。

この仏像は慶州陽北面獐項里に散乱していたものを復元したものらしい。 胴体以下が無いのに何故立像であると言えるのか。 それは立像の台座があったからなのだと。

高さ2m50cm。8世紀頃に造られたもの。

國立慶州博物館の展示物について、ほんの、ほんの、ほんの一部だけ紹介したが、見応えのある博物館であり、しかも日本の歴史とも似通った面が多々あるので展示品についての理解もしやすく親しみすら感じる。 私は3度目の訪問になったが、毎回満足して帰ることができるので嬉しく思っている。 

予想通り博物館の見学時間が最も長くなった。 いかに貸切りにしたとは言え、タクシーの運転手に3時間も待たせるのは悪いと思い、営業運転するかコーヒーでも飲んできてくれと言っておいたのだが、丁度3時間を経て正門前へ出てきたら駐車場に車を置いて待っていてくれた。 尋ねると、どこへも行かずに待っていてくれたのだと。 なんとも律儀な運転手であった。
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旧正月前、陽が暮れるのは早い。

釜山・南浦洞まで帰ってきたら6時を過ぎていたので、そのまま市場の店へ。 今夜もナックチを酒肴にビールと焼酎である。





masatukamoto at 09:35│Comments(0)TrackBack(0)

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