May 29, 2012

対馬を巡る (1)

さて、これまでJR九州のビートルで何度となく福岡・釜山間を往復してきた。 天気の良い時には、その都度対馬の島影を遠くに眺めてきたけど訪れたことがなかった。

博多から壱岐まではビートルと同じ高速船(ジェットフォイル)で行ったことがある。 博多の友人 T君が壱岐出身なので島内を案内してもらってフェリーで帰ってきたことがある。 高速船だと所要時間が1時間10分だがフェリーだと倍の2時間20分。 この時は夏で、しかも日曜日だったため帰りのフェリーが海水浴客などで満員だった。 そのため博多までの2時間20分は大変な苦痛で、壱岐よりも更に遠い対馬へは行こうと思わなかったのである。

ところがビートルによる『対馬・釜山航路』が開設されたので、それなら韓国からの帰り道に寄れると思ったのと、旧正月に入る釜山にいても殆どの店が休みになるならツマランので、ソルラルに入る1月22日に対馬へ移動しようと考えたのだ。

先ず訪れたのが殿崎の『日露友好の丘』。 写真は『日本海々戦記念碑』で明治44年に地元の人たちによってpict-P1050120日本海海戦記念碑建立されたもので、碑の上部には東郷平八郎元帥揮毫で『恩海義嶠』(恵みの海、義は高しと読むらしい)と彫られている。

以前、福岡県の宗像大社を参詣した折、宗像大社と言うのは市杵島(いちきしま)姫神が祭祀され宗像大神が降臨されたと伝えられる高宮斎場のある本宮の辺津宮、それに大島の湍津(たぎつ)姫神を祭祀する中津宮、そして遥か沖合いにある沖ノ島で田心(たごり)姫神を祭祀している沖津宮の三つの宮の総称であることを書いた。

私が宗像からフェリーで大島に渡り中津宮を参拝した時のことだが、その折のブログで司馬遼太郎の作品『坂の上の雲』に登場する佐藤市五郎のことも紹介した。  その日、彼は沖ノ島で神官と共に神様への奉仕をしていたのだが、「濛気がピカッと輝いて消えた。そのあと、身のすくむような砲声がきこえた。(略)砲声が矢つぎばやにひびいた。」と、日本海海戦の火ぶたが切って落とされるのを耳にしたのである。

この海戦における砲火の音は対馬の人たちの耳にも届いていた。
pict-img156
1905年(明治38年)、この対馬沖で大日本帝国海軍連合艦隊とロシア・バルチック艦隊の戦い、いわゆる日本海海戦が行われた。 韓国、対馬、壱岐、九州、合わせて沖ノ島もだが、これらがどのような位置関係にあるのか再確認するため上に日本海海戦の概略図を描いてみた。 海戦史を時系列に図示するほどのこともないので1枚にまとめたが・・・  

この海戦における連合艦隊の圧倒的勝利がアメリカ・ポーツマス講和会議の開催と日本全権で外務大臣・小村寿太郎による交渉妥結への大きい後押しとなったことは周知の通りである。 余談だが、小村寿太郎がRat Ministerとあだ名されるほど小柄な男であったことは知っていたが、昨年、宮崎県飫肥の小村寿太郎記念館を訪れ、等身大パネルと並んでみて「こんなに小さかったのか。」と驚いたものだった。 
pict-P1050118日露慰霊の碑話を戻すが、左の写真は2005年にロシア政府が建立した『日露慰霊の碑』で日本海海戦で亡くなったロシア人兵士5000人余、日本人兵士100人余の名前が刻まれている。
写真左側には先に紹介した『日本海々戦記念碑』も並んで写っているが、この海戦の際、撃沈されたバルチック艦隊のウラジミル・モノマフ号の水兵143名が4隻のボートに分乗して、この地に上陸したのだとか。 この戦況を見守りながら農作業をしていた農婦は命からがら逃げ延びてきた水兵たちを水の湧き出す泉へ案内し、夜は西泊の民家へ分宿させるなど手厚く持て成したそうな。 『日本海々戦記念碑』の東郷連合艦隊司令長官揮毫による『恩海義嶠』は、対馬の農婦たちによる敵味方区別なき対応に感動してのものpict-P1050121日露友好の碑らしい。

左の写真は、上の二つの碑と同じ『日露友好の丘』に建てられている友好と平和のレリーフ。

日本海海戦で敗れたバルチック艦隊の司令長官ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督は負傷し捕虜となって長崎・佐世保の海軍病院に入院していた。レリーフはロジェストヴェンスキー提督と彼を見舞う東郷平八郎大将を描いている。

対馬で一般道(都会での)と呼べるのは北の端と南の端を結ぶ国道382号線だけと思って良いかも。 県道の39号48号56号などもあるが、訪れたい立ち寄ってみたいと思う所へ繋がっている道は農道と言った程度。 実際、日常生活において広い道路の必要性を感じない対馬であるように思う。 私のように、たまたま対馬に立ち寄った観光客の一人としては便利で効率よく巡れる道路があればと思ったりするが、これは単なる欲。 便利さを求めたら必ず他を犠牲にしなければならないのは自明の理。 自然破壊、環境pict-P1050133豊砲台入口破壊という言葉が思い浮かぶ。  

写真は対馬の北端の丘の上にある豊砲台跡。

この砲台は昭和4年から5年かけて完成したもので、45口径、砲身18.5mのカノン砲2門が据えられたらしい。 説明板によると世界最大の巨砲だったらしいが、実戦には1発の弾丸を発射することもなく終戦を迎え、昭和20年10月にアメリカ軍の爆破班によって解体されたということだ。

説明板の結びで、上対馬町は「このような施設が二度と再び造られる時代のこないよう、人類永遠の平和を切望し、昭和59年12月現状に復した。」と記しているが、日本国憲法を遵守しなければならない町としては当然の記述であろう。

ところで、写真の通り説明板では黒塗りの・・・何だか戦後の教科書のような。

pict-P1050132豊砲台説明板この黒塗り部分の記述は『大正10年国際連盟軍縮条約により、戦艦「長門」が廃艦となり、その主砲を移管改造したもので』なのだが、何ゆえ黒塗りになっているのか、上対馬町が何らかの記述上の過ちを犯していたのか、それとも何者かが塗ったものなのか、黒塗りに対する説明がないのはイカン(遺憾)ねえ。 ははははは、ダジャレのひとつぐらいはいいか。

内部には濾過水槽などが残っており、砲台跡内を一巡することができpict-P1050134豊砲台内濾過水槽る。 百聞は一見にしかずと言うが、砲台跡の規模は実際に回ってこないと実感しないだろう。 デッカイ施設であったのだと改めて思った。

そうそう、砲台跡入口の白い軽自動車が今回2泊3日で借りた車。

pict-P1050131豊砲台入口-1あちこち見て回り写真も沢山撮ったけれど、適当に割愛して先に進めることにする。  

この豊砲台跡では会わなかったが、行く先々で韓国人の異なる旅行団体に遭遇した。 私よりも早いビートルで出発した人たちだろうか。 旧正月の有り様が変わってきたのかもしれないと書いたが、ソルラルの3日間の休みを旅行で楽しむ人たちが増えているのかもしれない。

しかし、何と言っても釜山からジェットフォイルの高速艇で1時間の航程である。 国境の島ではあるが、交通の便利さから言えば国境を意識しない島になってきているのかも。 実際には私は知らないが、韓国人が対馬の土地をどんどん買い進めているという週刊誌の見出しを見たことがある。

下の写真は鰐浦の韓国展望所からの眺め。
pict-海栗島合成済
晴れていたら前方の海栗島の向こうに韓国・釜山あたりを望むことが出来るらしい。 夜間なら煌々とした街明かりが見えるのだと。

前方の海栗島を拡大すると航空自衛隊海栗島分屯基地がよく見える。 
pict-P1050140韓国展望所-2
pict-釜山遠望
上の写真は、『対馬市観光物産推進本部』と『対馬観光物産協会』が発行している『対馬ガイドブック』より引用した。

私が撮影した昼間の写真と『対馬ガイドブック』の夜景が共に航空自衛隊海栗島分屯基地のレーダーサイトを捉えているのが確認できると思う。 夜景の水平線上に見える陸影と明かりが韓国・釜山市のものである。

朝鮮海峡を挟み、航空自衛隊海栗島分屯基地は将に国境での防衛最前線基地であることが分かる。

韓国展望所というのは鰐浦の小さな漁港を見下ろす丘の上にあるのだが、この丘への登り口には韓国風の門pict-P1050147韓国展望所が道路をまたぐように建てられ、丘の上に建つ展望所も又然り。 いかに韓国を展望できる場所だからと言っても、これはやり過ぎではないかと・・・ 対馬は日本なのだから。 

などと思いつつ10数人の旅行グループが去ってから写真を撮ったのだが、このグループも韓国からの来訪者であった。

pict-P1050137朝鮮國譯官使殉難の碑-1この展望所の丘には朝鮮国訳官使殉難之碑が建てられている。 

日本と朝鮮の交流は先史からあったが、朝鮮通信使の来訪という国家間の外交儀礼も豊臣秀吉の朝鮮侵略の時期を除き、室町時代から江戸時代末期まで続いた。 江戸期の朝鮮通信使は朝鮮の富山浦(現在の釜山)を出航してから日本の対馬、壱岐、筑前へ、そして長州から山陽道、東海道経由で江戸へ向かうコースをたどり、沿道にあたる対馬藩では宗氏が、壱岐では平戸藩の松浦氏、筑前では黒田氏が徳川将軍の賓客を迎えるというので大名以下丁重な接待を行ってきた。

1703年(元禄16年)2月5日の朝、108人を乗せた船が富山浦から対馬に向けて出航したが、天候が急変して鰐pict-P1050138朝鮮通信使船浦(韓国展望所下の集落)を目前に遭難し全員が亡くなってしまった。

朝鮮国訳官使殉難之碑は、朝鮮通信使が友好のための国家間の正式な交流であることを踏まえて平成3年(1991)に建立されたものである。

殉難之碑の前には朝鮮通信使の船を彫った石が置かれ、遭難した人たちの名前が刻まれた碑もある。

ここまで書いてきたように対馬へは韓国・釜山から僅か1時間で来れるのである。 同じ大都市・福岡からだと2時間かかる。 たまたま韓国は旧正月で三連休ということもあったと思うが、この日、連休ではないにしても日本も日曜日であった。 しかし、この時点まで日本人の観光客には一人も出会っていない。 こうしたことから考えれば対馬の観光が韓国向けに傾いても仕方がないかなあと、対馬へやってきて僅か数時間で思ったことである。 




masatukamoto at 06:44│Comments(0)TrackBack(0)

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