September 07, 2012

懐旧の集い三連 その3 の C

竹生島への観光船は北ビワコホテル"GRAZIE"の直ぐ前になる長浜港の桟橋より出航するので、昼食終えてからも出航間際まで涼しいホテルで語らっていた。

竹生島は昭和30年(1955年)だったと思うが両親に連れてもらったことがあった。 当時確か"ハリ丸"という大きい観光船に浜大津から乗り込み、竹生島を往復したように思うのだが記憶は定かではない。 現在は長浜港や今津港からの竹生島航路(琵琶湖汽船・京阪電鉄系)、或いは彦根港からの竹生島航路(びわ湖観光船・西pict-P1050771武鉄道系)があるが、当時はどうだったのだろうか。

私たちが乗船したのは"リオグランデ" Rio Grande という船名の観光船。 流線型の白い船体に赤色の横線が入り、颯爽とした外観から高速で航行できる船であることを感じさせた。  Rio (川)+ Grande (大きい)、スペイン語で大きい川を意味し、米国テキサス州とメキシコとの国境を流れる川の名前である。 

通常何かに命名する場合、名付けられるモノとその名前には何らかの繋がりがあるものだが、"リオグランデ"とこの観光船にどのような繋がりがあるのだろうか、この船名と船の関わりが分pict-P1050784竹生島港-1からない。 それに最近やたらと横文字が多くなったように思うのだが、日本語で表現し得ないモノのみを外来語として使用すべき。 そのように私は思っているのだが・・・

琵琶湖汽船の場合は"ミシガン" Michigan や"ビアンカ" Bianca という観光船の宣伝をしているが、"ミシガン" はネイティブ・アメリカンの言葉で大きい湖という意味があるから琵琶湖との繋がりと言う点で分からなくはない。 また、"ビアンカ" はイタリア語の白いという意味の言葉だから、"ビアンカ"の船体が真っ白という意味合いでの繋がりがあると言えばある。
 
"リオグランデ"。 琵琶湖が大きい川であると思えなくもないが、湖は湖であって、これはいささか無理があるよpict-P1050770集合写真-1修整うに思う。 ちなみに、びわ湖観光船の船名は"わかあゆ"(多分漢字表記では若鮎?)であった。 船名というのは好感度や認知度など直接営業にも結び付くことだけに、当該会社に関わりの無い私の立場からはその良し悪しについては言えない。 が、何でも横文字にという風潮には少々抗ってみたいと考えている。 こんなことをつぶやくと国粋主義や愛国主義、或いは右翼などと色分けされがちだが、私はそんな偏狂者ではないし、偏狭な考えは持たない。
 
上の集合写真は"リオグランデ"から竹生島の桟橋に降り立った時に N の指示で撮ったものだ。 竹生島への唯一の入口が写真の桟橋で、私たちの後方に手前から数軒あ
る売店、本坊、月定院と三段の雛壇状に建物が写っている。 
pict-竹生島 図
上図の左下の桟橋から売店前の広くない通路を通ると拝観受付所があり、ここで400円だったか500円だったかの拝観料を支払い、改札口のような有人ゲートを通って初めて石段を登り始めることができるのだ。 図では拝観受付所を通らなくても右手の都久夫須麻神社への通路を歩けそうに見えるが、実際には図で『拝観受付』と書かれている部分が建物(下の写真左側の石標後ろ)になっており、後に示す写真のような『竹生島入島記念』なる切符を買わなければ宝巌寺にも都久夫須麻神社へも参詣できない仕組みになっているのだ。
pict-桟橋より合成-2修整
下の切符に『竹生島入島記念』『竹生島奉賛会』と書かれているように、宝巌寺とも都久夫須麻神社とも書かれず、拝観の文字も金額も書かれてはいない。 往復乗船料、これは必ず支払わねば島に着いても、そこから他所へ移動することはできない。 桟橋に降り立ち、入島したとしても上の切符を買わない限り売店前をうろつくだけ。 将に入島しただけとなる。 従って『竹生島奉賛会』が発売している『竹生島入島記念』なる切符が実質上『参拝・拝観券』の役割を担っているのである。 
pict-img185
現代は拝観料徴収など珍しくもないからドウデモ良いと思いつつ、宝巌寺も都久夫須麻神社も人々の信仰の対象であり信仰の場であるならば参拝・入山料は徴収すべきでないというのが私の考えである。 観光船に乗船して竹生島へ行く者は宝巌寺と都久夫須麻神社に参拝或いは純然とした観光で訪れる人たちである。 現状はその人たち全てから徴収しているのと同じだから、参拝・入山料を支払わなければお参りできない仕組みになっているのだ。 寺も神社も入山料は取っていないと言うが、これは詭弁であり少々引っ掛かりを覚えた。 

しかし『竹生島奉賛会』の設立趣意によれば昭和30年に島の文化財を守るために発足したそうで、以後、電pict-P1050774気・上水道が引かれていない島のために自家発電設備や水道設備を整備し、防火水槽や消火栓、火災報知機に電話といった防災設備のほか、島の美化や案内標識の整備、パンフレット作成など参拝者の利便性を向上する事業を行ってきたというので、まあ仕方ないかと。

写真は竹生島港。 右手に売店、船溜まりは然程大きくはなく、写真がほぼ全景。 船体が大きい観光船は港外に延びた桟橋に停泊する。 

でもねえ・・・信仰の証しの場に行くのにお金が無ければ行けないという現実。 三途の川も渡し賃が要るそうだし、地獄の沙汰も金次第という俚諺もある。 やはり何かスッキリしないものを感じるのだ。

が、それはそれとして竹生島には立派な文化財が遺されており、宝巌寺と都久夫須麻神社に詣でた折のことをpict-P1050782竹生島宝巌寺本堂-2写真で示しておこう。 

左の写真は宝巌寺(ほうごんじ)の本堂で弁財天堂とも呼ばれているようにご本尊は弁財天である。 

弁財天については以前にタイの古代寺院について書いた折に紹介したが、ヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーにあたる。 サラスヴァティーは学問・芸術を司る神で、創造神・ブラフマーの妻でもある。 日本では神道と結びつき七福神の唯一女性神として琵琶を手にした姿に描かれ良く知られている。
pict-P1050783竹生島宝巌寺五重塔-2また日本では財運のご利益もあると信仰を集めてもいるようなのだが、ウーーム、ご利益? 果たして・・・。  

宝巌寺は724年に聖武天皇の命によって行基が開いたと伝えられる歴史ある寺で、西国三十三所観音霊場・第三十番札所でもあり参詣者は多い。

写真の三重塔は再建された(2000年)ものだが、元は1484年に建立されるも江戸時代初期に落雷のため焼失していたらしい。

pict-P1050781竹生島宝巌寺観音堂-2この三重塔から石段を下って行くと唐門に出る。

唐門は京都・東山の豊国廟にあったものだが、豊臣秀吉の遺命によって秀頼が移築させたのだそうだが、唐破風は桃山時代の豪華絢爛な建築様式を伝えており国宝に指定されている。

この唐門をくぐると観音堂(重要文化財)があり、ここには千手観音が安置されているのだが拝観はできなかった。

pict-P1050778この観音堂を回り込むと都久夫須麻神社の本殿に通ずる宝巌寺の重要文化財・船廊下がある。 この木製廊下は、一間幅で長さが30メートルあり、豊臣秀吉の御座船『日本丸』の船櫓を用いて造られたそうな。

日本丸と言えば海王丸と同じ3本マストの航海練習帆船しか知らなかったが、九鬼嘉隆が率いる九鬼水軍の船櫓100挺を用いる大型安宅船(軍船)もあったようで、秀吉の朝鮮侵略戦争『文禄の役・1592年』では日本の軍旗船を務めたらしい。

この船の規模を調べてみたが資料によって船の全長が27mであったり30mであったり46mであったり、また船pict-P1050775幅が10mだったり9mだったりと異なるものの、1500石積みで大砲を備え、順風の時は帆走するがその他の場合は船櫓100挺をもって漕ぎ進んだという。 日本丸は江戸期に入って解体縮小されたので大型安宅船としての詳細は分からないが、その船櫓をもって造られたというのが写真の船廊下なのだから日本丸という安宅船が如何ほどの大きさであったか想像もつこうと言うもの。

平地が極端に少ない竹生島だから崖地に支柱を組んだ上に廊下の普請が為されている。 清水の舞台とは比べようもないほど規模は小さいが、これらは一見に値いする。

船廊下を出ると都久夫須麻神社の本殿がある。
pict-P1050777竹生島神社本殿-2
幔幕が張られて本殿の造りが見えにくいが唐破風軒が少し見えているように入母屋造りで屋根は檜皮葺である。 元々は秀吉が伏見城に建てたものらしいが、これも秀頼により寄進されたもの。 内部には狩野永徳・光信親子が描いた作品があるらしいが確認できなかった。 しかし、この建物も先の唐門と同様国宝に指定されており、桃山時代の建築様式が窺える立派な文化財である。 

祭神は市杵島比売命、宇賀福神、浅井比売命、竹生島龍神とある。

市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)は福岡県の宗像大社を訪れた折に宗像三女神(市杵島姫神・湍津姫神・田心姫神)の一神であり、広島県宮島・厳島神社の祭神であることも併せて紹介し、宗像三女神が比売大神であることも書いてきた。 また比売大神が航海安全の神であるとも書いてきたように竹生島に市杵島比売命が祀られているのは湖上の交通との関わりかもしれない。 と私は思ったのだが、コレがどうもヤヤコシイ。

pict-P1050776都久夫須麻神社遥拝所宇賀福神は元々日本古来の神で人頭蛇身の姿をした宇賀神(うがじん)のことである。 この神は穀物に宿る神として、又福徳の神として信仰されていたらしい。 それが日本に入ってきた仏教の神である弁財天と合一して宇賀弁財天、つまり宇賀福神となり芸術・学問・福徳の神となったが、更に後、吉祥天と弁財天の混同があり、幸福・美・富といったものが宇賀福神の富や財のご利益が強調されるようになったのだそうだ。

また、この弁財天が衆生を救うため、市杵島比売命に姿を変えて人間世界に現れたという説もあって実にヤヤコシイ。 あまりにもいろいろあり過ぎて頭がこんがらがるのでこの辺で。

上の写真は本堂から湖に突き出たところにある龍神の拝所からの眺望。 遠くには多景島や伊吹山も望める。

鳥居に向かって『かわらけ投げ』を楽しめるようだが、やりたい人はドーゾ。
pict-竹生島合成完了
懐旧の集いとして書いてきたが、学生時代はやはり楽しかったの一語に尽きる。 一度きりの人生。 後戻りが出来ない故に貴重な時間であり懐旧の情も湧くのである。 

昔を懐かしむのは年寄りに共通する特徴と言われるが、これは寧ろ特権と呼びたいものだ。

酷暑日という暑さにはほとほと参ったが、それに数倍する楽しい一日を共に過ごさせて頂いたことを感謝して一応の結びとしておきたい。 

※ 飛び飛びでまとまりのないブログ構成になってしまった。 できるだけ思いついた時に書き上げようとは思っているのだが貧乏暇なしの俚言の通り、いまだに済州島紀行を書き上げていない。 いつになったら書けるのか・・・  コレガ最新ノ『つぶやき』デアル。


masatukamoto at 18:11│Comments(0)TrackBack(0)

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