October 05, 2012

久し振りに中之島・堂島界隈 (『北新地・弧柳』)

1年前くらいになるだろうか、某医院の待合室で"家庭画報"をペラペラめくっていたら『北新地・弧柳』の紹介記事に小さいながらも見覚えのある顔が写っているのに気が付いた。 『北新地・弧柳』店主・松尾慎太郎とあった。 

5年くらい前になるだろうか、松尾氏が法善寺の『喜川』を去ったのは。 『喜川』で修行を積み、その後も料理界で頑張ってる人を何人か知っている。 松尾氏もそのうちの一人、「精出して頑張りや。」と某医院の待合室で記事を見て以来、それっきり松尾氏のことを忘れていた。 

ところが今春 さんとの会話の中で『弧柳』の松尾氏のことが話題になり、一度行ってみようということで彼女の都合の良い日に予約を入れるよう頼んでおいたのだった。 それが先日 さんから連絡があり、彼女曰く、「弧柳さpict-P1060016んはミシュランの三ツ星に選ばれたようで予約が取りにくい店なんですって。でも、10月1日、月曜日で取れました」と。

予約当日待ち合わせ場所へは約束の30分前に到着。 少し早過ぎたと思い地下鉄淀屋橋駅から地上に出てみた。 左の写真は土佐堀川に架かる淀屋橋から川下の肥後橋方向を眺めたもの。 川の右側(北方向になる)が中之島で元々は大川(旧淀川)が運んできた土砂が堆積した砂洲。 南側の土佐堀川と北側の堂島川に挟まれた形になっている。

淀屋橋の謂われは江戸期の大坂の豪商・淀屋が店の前に橋を架けたことに因ると伝えられ、現在は大阪のメインストリート御堂筋の土佐堀川に架かるコンクリート橋梁で国の重要文化財にも指定されている趣きのある建築物である。 また、堂島川に架かる大江橋も共に重要文化財に指定されていpict-P1060012-Bる。

この淀屋橋を中之島に渡ったところ、左手に建つのが
日本銀行大阪支店(写真)。
花崗岩で造られた外観は重厚で、正面玄関の石柱は礎盤と柱頭には渦巻き装飾を擁したイオニア式の特徴を示し、銅版を使用しているのだろう、屋根の緑青が建物全体を落ち着いたものにしている。

この日銀大阪支店を眺めているとヨーロッパのどこかの町の旧市街地にいるような気分になるが、この建物の設計は辰野金吾氏で1903年(明治36年)の竣工である。 

辰野金吾氏と言えば直ぐ近くにある中之島中央公会堂の設計も手掛けているし、今般復元工事が完了した東京pict-P1060014駅の赤レンガの建物も設計した人物である。

この日銀大阪支店と御堂筋を挟んで向かい合って建つのが大阪市庁舎だが、左の写真は建て替えられた現在の市庁舎。 老朽化したからとか手狭だとかの理由もあったが、
旧大阪市庁舎は1921年(大正10年)の竣工であり、日銀大阪支店よりも新しい建物であった。

下のモノクロ航空写真は中之島上空より東向きに撮影したものだ。 写真下部で車が並んでいる道路が御堂筋。 その下の切れている部分に日本銀行大阪支店がある。 建物中央にドーム状の塔のある建物が旧大阪市庁舎、その後pict-img203ろの建物が
中之島図書館(1904年・明治37年竣工)で、その奥に中之島中央公会堂(1918年・大正7年竣工)が見える。

これらの建築物は勿論、右手の土佐堀川、左手の堂島川に架かる橋はいずれも石造建築物であり、明治・大正期の建造物が集中する中之島一帯は大阪の文化財集合地区であったのである。

現大阪市庁舎は景観に配慮した設計のようだが、私は旧市庁舎の方が趣きがあって好きだし、第一旧市庁舎を壊してしまったなら如何に設計上で配慮しようが生物体に例えれば死んだも同然で本来のモノには戻らないのである。

以前にも文化財軽視の日本について書いたことがあった。 旧市庁舎を保存するか壊すか、当時(1971年頃)私pict-img204は市庁舎建て替えに反対の立場を取っていたが、何とも情けない結果になり悲憤慷慨したものだった。

モノクロ写真は『大阪市政70年の歩み』より。 『大阪市100年のあゆみ』は市内児童に配布された冊子の表紙より。 また市庁舎建て替え当時の事情について触れているページがあったので紹介しておこう。 リンク先は『
大阪市庁舎と市民運動』。

話があらぬ方へ発展しそうなので、最後に日銀大阪支店の淀屋橋詰めに『駅逓司大阪郵便役所跡』の石碑について紹介し、話を基に戻すことにする。 
『駅逓司大阪郵便役所』というのは明治4年(1871年)に我が国郵便制度が開始したが、その時にできた大阪のpict-P1060011言わば中央郵便局(現在はJR大阪駅の西側)のことであり、その建物があったところを石碑が示している。

江戸時代、中之島一帯は土佐堀川や堂島川に面して全国各藩の蔵屋敷が並んでいた所で、1730年(享保15年)に開設された堂島米会所は世界に先駆けた先物取引所であった。

さて、話を『北新地・弧柳』に戻そう。

現在北新地と呼ばれているあたり一帯は江戸中期以前には大川(旧淀川)が運んだ土砂が堆積した砂洲で湿地帯であった。 このあたりの土地の成り立ちは、石山本願寺、秀吉の大坂築城と町割り、江戸期の河川改修整備と、大坂が辿った歴史と密接な繋がりがあって史書をひも解くと大変にオモシロイものである。 
pict-P1060017-B
が、それはさておき『北新地・弧柳』は全日空ホテル(ANAクラウン)の北西角の交差点、堂島中通りに面し、江戸元禄の頃には堂島新地と呼ばれていた地にある。
pict-img199
店舗は 1 階のみでカウンター席が12席。 客席からは厨房が見渡せるオープン形式になっており、調理する者から客の飲食の進み具合が見れるようになっているので頃合いに料理を出してもらえる。

夜は5時30分から懐石風コース料理のみを提供しているとのこと。

当日の料理もコースとして順に出して頂いたが品数が多いので全てを記憶できなかった。 ただ素材には特別なこだわりがあるようで、青物については『喜川』と同様"浪速野菜"を多く使っておられたような・・・

下の写真は八寸のような・・・しかし、刺身、焼き物などもあって・・・
まあ懐石風ということで、あまり厳密に区分しても仕方がない。 要は盛り付け、味わい、香りなどで楽しみ、美味しく頂けたならそれで良いのである。
わずかに色付いた枝を生け、青いイガ栗で季節感を出している。
pict-P1060018-B
私の好みは明石鯛に大間鮪の刺身、それにノドグロの焼き物であった。

こうした刺身に醤油や塩を添えて出すのは通常だが、この日は醤油と海水が添えられていた。 海水というのは普通3%程度の塩分を含んでおり、醤油の10数%に比べれば塩っ気は遥かに薄いものである。 しかし、私は海水で洗いすすぐようにして白身魚の刺身を食べるのは美味しい食べ方のひとつであることを知っている。
もう40数年前になるが、屋久島の老漁師の好意で前日に仕掛けた網を上げに船に乗せてもらったことがあり、網にかかったマナガツオとタイの刺身を船上で頂いたのだった。 それまで刺身というのは醤油とワサビで食べるものだと思っていた私は、同行した友人二人もだが、老漁師が器用に下ろしてくれた沢山の刺身を見詰めるだけで醤油が無かったために手を出せないでいた。 そのうち私たちの行動をいぶかった老漁師が刺身を一切れつまんで船べりから海へ手を伸ばし、海ですすぐようにして口に入れ、こうして食べるのだと教えてくれたのである。
南方の海とは言え2月末の早朝である。 刺身に下ろしてくれた小さな包丁にも俎板にも、そして刺身の切り身にも白い脂がこびり付いていた。 その切り身を海水で洗いすすぐようにして食べたのだが、新鮮なのは勿論だが海水の塩分で刺身を頂く美味しさをこの時に知ったのである。 もっともその後海水で刺身を頂く機会が無かったのpict-P1060021修整-Bで、『弧柳』で実に40数年ぶりに味わうことになった。 海水では明石鯛のみを頂いた。
それとこの日は大間のマグロが入ったとのことで、トロと天身、一切れずつではあったが盛られていた。

私がマグロ好きなことは何度も書いているので省くが、マグロ独特の酸味を感じられる天身が美味しく、一切れではチョット満足できなかった。 しかし大間からは築地へ直行というのが津軽のマグロ流通の通常コースなのだが、珍しく大阪の市場へ入ってきたことを素直に喜んでおくことにしよう。

そうそう、お刺身には"黄身醤油"が鮪の横に添えられていたが、どのような食し方を松尾氏は勧めるのだろうか。このことは聞きそびれてしまったが、淡白な魚との相性は良いように思うが、私は素材の単純さを好むので、味はpict-P1060019修整濃いけれど"黄身醤油"は"黄身醤油"として、そのままでお酒の肴の一品として頂いた。

この日、全くの偶然であったが『喜川』の料理長 氏ご夫妻と『弧柳』でバッタリ。 時にはこうしたこともある。 互いに何となく照れくさいような恥ずかしいような。 別に I 嬢と秘密のデートを楽しんでいるわけではなく家内も私の行動を知っているのだが・・・人間の心理とはオモロイものである。

 I 嬢とは久し振りのデートだったので帰路ヒルトンのラウンジへ寄り、べらべら喋りまくって大満足の夜となった。
多分 嬢も満足であったろう。 と、思う。



 


masatukamoto at 14:04│Comments(0)TrackBack(0)

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