May 24, 2013

みちのく行 (18) 湯殿山総本寺瀧水寺大日坊

湯殿山神社本宮のご神体を拝してから参籠所下の駐車場に戻り、我が愛車をスタートさせた。
この参籠所の駐車場と国道 112号線を結ぶ道路は有料であるとの情報を得ていたのだが、実際に支払うことは無かったような・・・

半年を経てから記憶をもとに書いているので所々オカシイ所があるかもしれない。 旅行中に得た資料等 ( パンフレットや領収書など様々なもの ) は紀行作成整理のため撮影した写真や我が覚書などと共に暫くの間は保存pict-スズラン-1しているのだが、現在は私自身が病室暮らしをしているために資料を確認、活用できないために整合性のないことが起きているかもしれないということなのだ。

※ 我が家の鉢植えスズランが満開 5月15日 撮影は家内
    ( この写真は単なる飾り )

おぼろげな記憶を確かなこととして断定的に書くわけにはいかない。 勿論、表現の仕様によって多少の曖昧さを残しつつも確からしい印象を与えるように書くことは出来る。 レトリックと呼ばれる分野、つまり修辞技法に於ける『ぼかし』とか『ほのめかし』にあたる技法になるが、それはマヤカシ、詭弁、虚言に通じる面もあり、私の基本姿勢とはズレるもので通常意図的に用いることは先ず無い。 レトリックとしてなら『比喩表現』とか『具体表現』、或いは『強調表現』など時に用いてはきているが、世に言う悪徳な輩の舌先が三寸ならば私の舌先など一寸どころか一分にも満たないであろう。

国道 112号線 ( 六十里越街道 ) は山深い谷間に沿ってくねくね続く九十九折れの道である。
何ヶ所か工事箇所があり片側通行になっていたが、舗装された対向2車線道路で走りやすかった。

この道路は『あさひ月山湖』という人造湖に沿った道らしいのだが、私には湖を確認することが出来なかった。 多分道路と湖面の高低差が大きい上に道路と湖の間に広く樹木が茂っていたからだと思うのだ。

この国道 112号線の某トンネル ( 名前が分からない ) を出た所で右手への道が分岐している。 道上部の高い所には山形自動車道 ( この区間の工事は完成していた模様 ) が通っており、この自動車道の下をくぐって谷間を抜けて暫く走ると緩やかな段々状に田畑が並ぶ農地に出る。
pict-大日坊・瀧水寺山門その農道を少し走った所に写真にあるような茅葺きの仁王門 が建っていた。
この仁王門は寺院建築としては珍しい八脚門であることや室町期以前の建築物であることから山形県の有形文化財に指定されている。

この仁王門は湯殿山総本寺瀧水寺大日坊のもので写真のよpict-大日坊瀧水寺木札-1うに『即身佛木喰真如海上人』と書かれた木製看板が掛けられていた。

『即身佛』と言うのは真言密教の教義であり、人間が現世で生きた状態のままで悟りを開いて仏になるというものだ。

『木喰』は「もくじき」と読み、木食戒に従っての修行を行うことであるが、木食戒とは穀断ちとも言われ米、麦、大豆、小豆、胡麻の五穀と塩を断ち、肉食もせず、しかも火を使っての調理もしないというもので、口に入れることの出来るものは木の実と草だけだそうだ。
これは五穀断ちと言ったそうだが、蕎麦、黍 ( きび ) 、粟、稗 ( ひえ )、唐黍 ( とうきび=トウモロコシ ) を加えた十穀断ちもあったらしい。
 
そうした穀断ちと言われる行は千日行などと呼ばれ、何年もの長い期間続けられ、やがては水も完全に断ち、体の水分をも無くして乾燥させていくそうだ。
そうして最後は入定に向かって漆 ( うるし )を飲むことで体内の腐敗を防ぐのだと。

漆かぶれは無いのだろうか・・・なーーんてのは下賤の考え。

『真如海上人』の上人は偉い僧侶に対して付けられる敬称だから、真如海と言うのが僧侶の名前になる。
この真如海という人物は湯殿山・越中村の百姓で、肥やしがかかったと武士と言い争いになった末、この侍を殺pict-大日坊・瀧水寺本坊-1-2してしまったために大日坊に逃げ込んで出家、
1783年(天明3年)大飢饉の救済を祈願して木喰修行に入り、大日坊に近い山中の土の中で 95 歳で入定したと伝えられている。

この『即身佛木喰真如海上人』のミイラが安置されていることで名高いのが、写真の湯殿山総本寺瀧水寺大日坊である。

この『即身佛木喰真如海上人』のミイラについては写真撮影の許可を得る機会を失したので、『湯殿山総本寺瀧水寺大日坊』のページを紹介させて頂くことにする。
住職に写真撮影の許可を求めようとしたのだが、その都度参拝者が来場、住職の説明も蓄音機でレコードを聴くがごとく同じ説明が繰り返されて途切れる様子も無かったので、説明料というか、家内は高いと言ったが細かいのを持ち合わせが無くて〇〇円札を布施として住職に手渡した。
なかなかの熱弁であり、まっええやないかって。ぶっははははは
pict-大日坊 仁王像阿形-1
左の金剛力士・仁王像 ( 阿形 ) の写真、次の仁王像 ( 吽形 ) 、そして風神像に雷神像は、この大日坊の仁王門に安置されていたものである。
文化財としての史的価値がどうなのか分からないが、私には彫像としての美的価値からついついカメラに収めておこうという思いに駆られた立居姿であった。

法隆寺の仁王像も東大寺の運慶・快慶による仁王像も素晴らしい作品で私の好きなものだが、この大日坊の仁王門の作品もなかなかのモノであった。

ところでその昔、湯殿山は高野山と同様に女人禁制であり、湯殿山総本寺には多pict-大日坊 仁王像吽形-2くの僧坊が建ち、大きい力を有していたそうだ。
その頃の『出羽三山』というのは『みちのく行 (17) 湯殿山』で、「羽黒山を観音菩薩で現世と見立て、月山は阿弥陀如来で前世と見る、そして葉山を薬師如来として来世と見る。 そして湯殿山は俗世ではなく出羽三山の奥ノ院とも言うべき聖地で大日如来に見立てていたのだ」と書いたように中世までは葉山が出羽三山のひとつであったと、これも私の聞き違いでなければ瀧水寺大日坊の住職が語っていた。

この住職の言によると、明治新政府の方針である廃仏毀釈の嵐は出羽三山でも大いに吹き荒れたということである。

神祇官が羽黒大権現を出羽神社に改組するや、酒田県は羽黒山麓仁王門から月山山上までの末社から道端pict-大日坊 風神-1の仏像など全てを取り除くよう命令を下し、最終的には羽黒大権現・月山大権現・湯殿山大権現は出羽三山神社として天皇中心の政治体制構築を目論む明治政府の思惑通り、国家神道の中で全く新しい組織として作り上げられることとなっていった。
当時多くの寺院僧坊が破壊され、辛うじて羽黒山の荒澤寺・正善院、湯殿山の注連寺・瀧水寺大日坊などが寺院として残ったとのことである。

ところで、この湯殿山は先に書いた通り女人禁制であり、女性は湯殿山の寺院僧坊pict-大日坊 雷神-1に参ることで湯殿山に参拝したことになっていた。 
瀧水寺大日坊には三代将軍・徳川家光の乳母である春日の局が二代将軍・徳川秀忠の病気平癒祈願に参詣しており、その祈願文を入れた状箱が大日坊で保存されている。 が、この病気平癒祈願は表向きであり、実のところ竹千代 ( 三代将軍・家光の幼名 ) を将軍にするための祈願であったとも言われている。
事実、この後も徳川家の祈願寺としての扱いを受け続けていったことからも推測できると言われるのだが、これについては果たしてどうか・・・確かな史料がないことには、むむむむむ。

湯殿山総本寺瀧水寺大日坊の見学を終えて再び国道 112号線 ( 六十里越街道 ) に戻り、鶴岡市へ向かった。



masatukamoto at 06:50│Comments(0)TrackBack(0)

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