May 30, 2013

みちのく行く (19)  鶴岡から羽黒山へ

国道 112号線 ( 六十里越街道 ) で鶴岡市へ向かう頃になって
ヤヤコシイ空模様になってきた。

現在、山形県は日本海に面した庄内地方と、その東側部分 ( 内陸部 ) の北部・最上地方、中部・村山地方、南部・置賜 ( おきたま ) 地方の4つの地域に分けて見ることができる。

鶴岡市はその庄内地方の南に位置し、北に位置する酒田市と行政的規模を二分していると言って良い。
この庄内地方というのは最上川と赤川の堆積作用によって出来た庄内平野であり、近世以降現代に至るも東北地方有数の農耕地である。 
戦国期には最上氏と上杉氏による勢力争いの地となったが、江戸期になって徳川譜代大名の酒井忠勝が出羽庄内藩主に封じられて以後、藩庁を鶴岡城に置き、明治期まで酒井氏が藩政を行ってきた。
一方で現在の酒田市は江戸期に北前船の寄港地として大いに栄え、豪商・本間氏が勢力を握っていたらしい。
pict-鶴岡公園-1
上の写真は出羽庄内藩・鶴ヶ岡城址 ( 明治 4 年廃藩置県により廃城 )

近世については北前船による人々や物資の交流など、日本海
文化圏として地理的に広く史的研究が進んでい6るようだ。

写真は復元された北前船 ( 陸奥新報2007.8.6より )

考古学的には硬玉類が多数出土していることで鶴岡市の玉川遺跡 ( 縄文中・晩期遺跡 ) が有名で 5000年前頃には人類が生活していたことが分かるのだが、縄文時代というのは今から 1万4000年前頃から 3000年前頃までの時代を指し、文字による記録などの無い有史以前のことなのでハッキリ言えば『ワカラン』時代である。

同じように『ワカラン』ことの多い時代ではあるが、韓国・公州の武寧王陵を訪れた折のことを思い出した。
百済の第 25 代王 ・ 武寧王 ( ムリョンワン、462~523年、在位502~523 ) と王陵については『韓国・公州・・・その②』 ( April 29,2012 ) に記しているが、武寧王と王妃の木棺に日本固有種 ( 1 属 1 種 ) のコウヤマキ『高野槇』が用いられていると。つまり、日本にしか無いはずの樹木『高野槇』が何故韓国・百済の王の棺に用いられていたのか、この疑問はとっても『オモロイ』ものだと。
さらに硬玉についてだが、武寧王陵から多くの勾玉 ( まがたま ) が出土しているが、この勾玉が翡翠 ( ひすい )、つまり硬玉であり王冠の飾りにも使われていた、多分高価で高貴、貴重なものと考えられていたのであろう。
武寧王陵より出土した翡翠=硬玉の原石は化学組成分析の結果、新潟県糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明している。 しかも縄文時代において硬玉が東アジアでは日本でしか発見されていないことを考えれば、糸魚川から鶴岡など日本海沿岸域では早い時代から広く交流が行われていたであろうと考えられ、『ワカラン』時代ながらもいろんな方向に推量が広がり、なかなか『オモロイ』ものだと思うのである。
pict-致道博物館-1
さて、鶴岡市から羽黒山へ話題を転じるつもりであったが、少々つまづいてしまった。 上の写真は鶴岡公園 ( 鶴ヶ岡城跡 ) の堀の前に建つ致道博物館。  
酒井氏庭園の一角にあり、旧鶴岡警察署庁舎 ( 重文 ) で、致道の名前は庄内藩校『致道館』に由来する。

鶴岡から羽黒山へはほぼ一本道 ( 県道47号線 ) で迷うことはない。
pict-羽黒山への道-羽黒山大鳥居-1
道路をまたぐ大鳥居をくぐってしばらく走ると旧道 ( 県道46号線 ) と県道47号線の分岐点に出る。
江戸期には三百数十もの宿坊があったという門前町手向の様子を見るべく旧道を走ってみたのだが、何軒かの宿坊らしき建物は見えたものの往時の賑わいを想像することはさすがに難しかった。
町の名前を門前町手向と書いたが、『たむけ』ではなく『とうげ』と読む。 ふーーむ。

旧道を更に走っていると出羽三山神社の鳥居と随身門の前に出る。
pict-羽黒山・表参道・随身門-1-1ここから出羽三山の神域に入るが、神域は羽黒山から月山、湯殿山へと広大な地域に広がる。
鳥居の中央には月山、右下に羽黒山、左下に湯殿山と書かれている。
鳥居の向こうに見えるのが随身門だが、元々は江戸・元禄の折に寄進された仁王門であったらしい。
それが明治の廃仏毀釈で江戸期には三百数十もあった寺院宿坊は言うに及ばず、仏像などもことごとく破壊され、明治政府の思惑通り国家神道の中に取り込まれた折に仏教の守護神である金剛力士を安置した仁王門から、神社・貴人を守護する随身を安置する随身門pict-羽黒山・表参道・末社に変えてしまわれたという。

この随身門をくぐったところから下りの石段が長く続く。 この石段の坂は継子坂 ( ままこざか ) と呼ばれ、下って行くと写真のように杉木立が鬱蒼と茂る中に末社が建ち並ぶ所に至る。

写真は祓川 ( はらいかわ ) に架かる朱塗りの神橋。
pict-羽黒山・表参道・祓川・神橋-1-2祓川には須賀の滝より落ちる水が流れ、昔の三山詣での人々は、この祓川で水垢離潔斎を行ったらしい。

滝廉太郎が作曲した『箱根八里』という歌がある。作詞者を覚えていないが、『箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 万丈の山 千尋の谷 前に聳えしりえにさそう 雲は山をめぐり霧は谷をとざす 昼なお暗き杉の並pict-羽黒山・国宝・五重塔-1木 羊腸の小径は苔なめらか』と歌う。
箱根山のように天下の険とまでは言わないが、羽黒山の表参道もイメージとしては共通するものがある。

写真の五重塔は、三間五層で高さが 29m 柿葺素木造で国宝である。

傘なしで雨に打たれながらであったが、あまりにも見事な塔であり、家内も私もしばし見とれていた。
ほんま、「素晴らしい」のひとこと。 
ほかに言葉は要らんかった。

この五重塔の近くに『爺杉』と名付けられた杉の巨木があるのだが、幹周りが 10m で樹齢は 1000年だと。
pict-羽黒山・表参道・天然記念物・爺杉しかしここに掲載した写真からも想像できると思うが、幾重も樹齢を重ねた古木が多いので『爺杉』が特段目立つようには見えなかったのだが・・・

天然記念物『爺杉』の写真を・・・参考までに。
 
pict-羽黒山表参道杉並木-1羽黒山の表参道はこうした苔むした石段が長く続き、やがて三神合祭殿に至る。

一方、先の旧道 ( 県道46号線 ) と県道47号線はやがて合流し、その後県道47号線は県道45号線と県道211号線、それに羽黒山有料自動車道に分かれる。
県道211号線は月山八合目まで通じているので月山詣での人や登山者はこの道を利用することとなる。

この日お天気が回復しないので、私たちは羽黒山有料自動車道で三神合祭殿へ詣でることにした。

                                【 つ づ く 】


masatukamoto at 08:18│Comments(0)TrackBack(0)

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