June 28, 2013

ぼんやりと・・・

『光陰矢の如し』との俚諺がある。
この諺を使う場合、これまで私は年単位での長い期間で用いることが多かったように思う。
しかし、『光陰』の『光』は日 ( 太陽 ) を表すし『光陰』の『陰』が月を意味することを思えば、『光陰』とは日月のこpict-20130621ハイビスカス-1とであり、歳月、時間 ( 時刻を含む ) のことでもある。 
したがって目先の 1 秒先のことであっても当てはまるのである。 
『歳月人を待たず』(歳月不待人)との俚諺もある。
陶淵明の詩の一節だが、
以前 ( March8,2009 ) に当ブログ『返書に先立って』にて引用し、併せて『少年易老学難成 一寸光陰不可軽』という詩にも触れておいた。

1 分 1 秒を軽んずるつもりは全く無いのだが、この 10 日ばかりの間、何をしていたのかハッキリ覚えていないのだ。
ハッキリ、つまり何のために、いつ、何をどのように行うかといったことが曖昧なまま、ただ時を過ごしてきたということなのだ。
勿論認知症ではないので記憶障害という意味ではない。
pict-20130621ハイビスカス-2
余談になるが、認知症という訳語が適切かどうかと言う点で私は以前より引っ掛かりを覚えているのだ。
以前に用いられていた痴呆症の痴呆という表現が差別や蔑視につながるとの観点から変更しようとの主張があったことを耳にしたことがあるし、先天的な脳の器質障害を知的障害と呼び、認知に関わる障害を認知障害と呼pict-20130621ハイビスカス-3んできたことに対し、後天的に生じた脳の器質障害により知能、つまり学習機能や言語機能などの後退低下が見られる症状に対して認知症という訳語を充てたようだ。
( 私の理解だが )

長年にわたって用いられてきた言葉を簡単に差し替えたり、タブー語と指定したり、死語扱いするような風潮に対して私はオカシイことだと考えているが、ひとつの単語が差別的蔑視的意図をもって使用されたりすることについては明確に反対するものであり、そうした意味において痴呆症という訳語が変更されたことについては理解出来る。

ただ、認知症という言葉は『認知+症』という複合語であり、『症』は『しるし』とも読み《病pict-20130621ハイビスカス-4気の状態》を表す文字だから別段問題であるとは思っていない。
しかし、『認知』というのは《或る事柄をきちんと認める》という意味で、これは法律用語としても使われている。
また、心理学における認知は感覚や記憶など様々な情報を仕入れ、それらを取捨選択しつつ思考活動を行い、問題処理解決に至る活動プロセスを指している。
認知症という訳語が適切かどうかと言う点で私が以前より引っ掛かっているのが将にこのことなのである。
つまり、認知という言葉では《病気の状態》を端的に表しているとは言えない、と、コウ言うことなのである。

どうでもええと言えばどうでもええようなことだが、一度気になると解決しない限り何時までもポッと、時々忘れたような頃合pict-P1060597-1いにではあるが思い浮かんでくるのである。
認知心理学において、人間の記憶の過程は先ず記銘することから始まり、その記憶を保持し、時に応じて想起し、必要度に応じて忘却という道筋を辿るとしている。
五月だったかに連想言葉について書いたことがあったが、今回の認知症についての記憶の想起は退院してから自宅で過ごした 10 日ばかりの間、私がどのような生活をしてきたのかハッキリ覚えていないということから連鎖的に想起したものである。

きっと久し振りの自宅での生活に加え、両手杖での不安定な動き、更に訪問リハビリや通所リハビリといった生pict-P1060600-1活リズムの変化などで落ち着かない生活が続いていたためであろうと思うのだ。

でも、一昨日に通信販売でCDを買い入れ楽曲を聴いてみようという余裕めいた気持ちが出てきたので、少しばかり落ち着いてきたのかなあと思っている。

そうそう、『光陰矢の如し』と言えば卒業生の一人が結婚することになったのでビデオによる祝いのメッセージを欲しいと頼まれていた。
そのビデオ撮りのため先週末に母親が我が家へ来られた。
何だか記憶がハッキリせずにボーとしながら撮影に臨んだように思うが、失礼なことを語らなかったろうかと・・・・・

この 10 日ばかりの間の記憶は飛び飛びで連続性に欠けている。
自宅に帰ってからも家内に世話をかけっぱなし、予想していたことながら、これも落ち着きを失っていたひとつの要因かもしれない。









masatukamoto at 13:16│Comments(0)TrackBack(0)

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