July 25, 2014

近くの、むかしむかし《6》

昨夜からあまり気温の変化はなく、今日も早朝から暑い一日が始まった。

昨日は祇園祭の後祭りだとかで、150年ぶりに復興した大船鉾を加えた山鉾巡行の模様がテレビで紹介されpict-猿田彦-天神祭ていたので、その映像を見ながら夏祭りに参加している気分に・・・・・
ははははは、そんなことで祭りに参加してる気分に浸れるはずもないのだが。

ともあれ今日は暑い暑い中での天神祭の本宮。
陸渡御、船渡御など多くの神事が執り行われる。
写真は渡御列を先導する天神祭の重要な役割・猿田彦で、天狗の面をつけるのだ。
戦前の天神祭で猿田彦の重役を果たした祖父のモノクロ写真が残っていたが、白黒の写真ではなく白色と茶色の写真だった。
セピア色と言うらしいが・・・・・

昨日は久し振りに『近くの、むかしむかし』とのテーマで《5》を書いた。
30年ばかり前の我が家裏で起きた事実を基に、1300年ばかり昔の我が家の辺りの様子を思い浮かべていたのだった。
その我が家が位置する丘のはずれから生駒山方向を眺めたのが下の写真である。
f5d86a07[1]
目印を記しておいたが左下の阪奈中央病院は私が回復期治療のため入院していた施設であり、この病院と道路を挟んで位置しているのが田原口城跡の丘である。

田原口城跡 (生駒市) と書いたが、田原城跡 (四条畷市) や北田原城跡 (生駒市) も近くにあってややこしい。
実のところ、いずれも我が家からは極々近くに位置する史跡ばかりなのだが、城跡を自分の足で確かめたことがないのだ。
pict-長福寺-1
唯一、上の写真の田原口城跡のみ同じ場所に建つ長福寺へ行ったのだが、それも門前まで行ったに過ぎず、とても見学したとは言えない状況なのだ。
灯台下暗しとは、ほんによく言ったものだと感心するばかりである。

この長福寺だが、私が今の家に住み始めた頃は上の写真の丘の周囲は殆どが田地であり、土地の農家の建3d5e69b8[2]物が散在しているような状況であった。
以来40数年、長福寺と田原口城跡を残すのみで丘の周囲は住宅で囲まれてしまった。

この長福寺は真言律宗に属し、正しくは金龍山・長福寺という。
617年、聖徳太子によって開かれたとする説と、聖武天皇の勅願によって行基が開山した (寺伝) とする説があるらしいが、これはこれで想像を膨らませるのがオモロイ。
聖徳太子と聖武天皇では生存時期において100年の違いがあることや、飛鳥、信貴山、河内、浪速と足跡が確かな聖徳太子に対し、100年後の奈良時代のことになるが、行基は河内の堺に生まpict-朝顔イラスト-1れた後、仏教修養を積みつつ各地を回って開墾灌漑工事指導など民衆救済に深く関わり、平城京における聖武天皇の東大寺大仏建立の勧進にも関わっている。 その平城京の須恵器の一部は我が家近くの窯で焼かれていたことや、行基が亡くなってから、彼の遺言だったと思うが弟子たちによって生駒の往生院へ運ばれ、火葬された後は遺骨が竹林寺 (生駒市) に納められている。

そして、長福寺以外にも行基開創と伝えられている寺が生駒及び近隣地域に結構あるので、私としては金龍山・長福寺開山も行基であると思いたいが、勿論想像の域を超えるものではない。
pict-DSCF5606写真のミニトマトは T さんが持って来てくれたもの。
商品として出すには粒の大きさがバラバラだし熟し具合も・・・・・・
でも、もぎたてで瑞々しく甘かったり酸っぱかったり。
とにかく嬉しくて T さんには、いつもいつも感謝である。

ぼちぼち天神さんの船渡御も最高潮の時を迎え、花火も打ち上げられるのだろう。
pict-一本義-1今夜は昔の職場の人たちと夕食会だと家内は出かけて行った。
思いっきり楽しんできてくれれば良いのだ。
家内が用意してくれた夕食を私も頂くことにしよう。
今夜は福井県は勝山の地酒で楽しもう。
『 一本義 』 は長男・ J が嫁 Y の実家へ行った際、いつも土産にと持ってきてくれるものだが、今回は私が自腹で仕入れたもの。 ぶっはははは、ではでは。


masatukamoto at 19:40│Comments(0)TrackBack(0)

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