October 30, 2014

カメラ その ②

『カメラ その ①』でコンパクトなデジカメを重宝していると書きながら不足があるとも書いた。
実際、通常撮影の場合には何の問題もないのだ。
ただ、時に星座や星の動きを撮ってみようと思うことがあるのだが、シャッター速度に開放、つまりs-Fuji-FinePix-S9400W-2バルブ機能がなく、星の光量が低いということもあって撮影出来ないといったことがある。

デジタルカメラというのは様々な機能が目一杯コンパクトに賢くまとめられた逸物であるが、特殊な要求を満たすなど何もかも一台で済ませるなどというのは流石に無理もあろうし私も要求はしない。
息子が置いて行ってくれた富士フィルムのファインピックスだが、まだ取扱い説明書を読むに至っていない。
近頃は細かい文字を読むことが辛く、『 習うより慣れろ 』 よろしく、このカメラも一応触ってみたがバルブ機能を見つけることは出来なかった。
しかしながら持ちやすくて見た目以上に軽い軽ーいのだ。comphotoskratzpage3オドロクほどに。

ところで私とカメラの付き合いは長い。
これは父親が写真の趣味を持っていたことが大きく影響したようだ。
昭和31~2年の頃、木切れを削って作った小さな戦闘機を糸でぶら下げ、それを幼稚な当時のバカチョンカメラ ( 上の写真に似たカメラ ) で撮影していたことを思い出す。 たぶん私のアルバムに貼ってあるはずだが。
当時、日光写真の遊びを卒業した私だが、父親の高価なカメラ ( ライカ ) を触らせてはもらえず玩具のような小型のカメラを買ってもらったのだった。s-Fujipet
映画ゴジラの特撮に興味があり、空を飛ぶ模型の戦闘機を実際に飛んでいるように見せる写真をと子どもなりに考えて取り組んだものだった。
それから暫くしてフジペット(右の写真)という、これも玩具のようなカメラであったが父親に買ってもらって随分遊ばせてもらったものだった。

確か私がフジペットを手にした翌年だか翌々年だったか、父親のカメラがライカから三角マウントが特徴の一眼レフ 『 ニコンF 』 に代わっていたのだった。
s-Nikon Fこの名機は私が高校生になった時に父親が譲ってくれ、10数年前まではずっと使っていたのだ。

ずっしりと重く、シャッターを切った瞬間のカシャッという音など当時の私には、『 うーーん、大人のカメラ 』 という感触を持っていたものだ。
1964年東京オリンピックが開催されたが、その聖火はアテネから日本へ運ばれ各府県を縦断するようにリレーされた。
この聖火リレーで大阪の一区間を陸上競技をしていた友人が聖火トーチを捧げ主走者として走るので、この 『 ニコンF 』 を持って私は撮影に出かけたのだった。
当時は写真部にも籍を置いていたし、生徒自治会長の任にもあったので記録と応援のためなどと全く勝手な理由をこじつけ授業をほったらかして ( サボって ) 聖火リレーを見に出かけたのだった。
何を言われようと今や時効である。ぶっははははは2014-10-26_093747

その後1980年代にゼンザブロニカ ( 写真右 ) を手に入れ、東大寺・二月堂のお水取りや各地の風景などを撮影してまわった。
フィルムが大判だし分解能の良いカメラだったので四つ切や半切に引き伸ばし焼き付けるのに都合が良かったのだ。
しかし、カメラ本体だけでなく交換レンズや三脚を運ぶのが大変だったため数年で手放すことになった。
と同時にビデオカメラでの撮影へと興味が移り、1997年、それまで使っていたワープロからパソコンへ移行。
こうしてパソコンの使用頻度が上がるにつれ、カメラも手軽で高性能なデジカメを使用する頻度が高くなり今日に至っている。

カメラひとつについても昔々につながる色々なことを思い出す。
そう言えば父親も 『 ニコンF 』 を私に譲ってから後に仕入れたカメラは年を経るs-ムラサキシキブ-1ほどに軽く小さく操作性の簡単なものへと変化していた。
私も父親と同じ道を辿っているような・・・・・

息子が置いていってくれたカメラは図体は大きいが意外と軽いし高性能で高機能である。大きいということを省けばスバラシイのだが、私としては勿体なく有難く、結局大切にしまっておくということになるのかも。
ははははは、親ってのは・・・・・

まっええか。
連鎖の記憶をたどることは懐かしくも楽しくもあり、私には嬉しい作用である。



masatukamoto at 20:49│Comments(0)TrackBack(0)

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