August 29, 2017

記憶の広がり 〔エサ《3》から〕

私が即席麺を食した記憶は昭和37年(1962)、50数年も昔に遡る。
その頃はインスタント・ヌードルとは言わなかった。
確か即席ラーメン、或いはインスタント・ラーメンと呼んでいたように記憶しているが、私の場合、インスタント・ラーメンと言えばチキンラーメンを指していた。
黄緑-1
学寮の夕食時間帯というのは5時半から6時半と早く、日々の自習時間はどうしても夜遅くになってしまい、午後10時2017-08-29_075008頃になるとお腹がググーと鳴ったものだ。
そんな状況を予想していたのだろう、私の母親は時々チキンラーメンをも送ってきてくれたのだった。
毎日ではなかったが週に二度か三度、同室の友人と一袋のチキンラーメンを半分ずつにして夜食として食べていた。s-2017-08-29_101250
成長盛りの私たちにとって満腹感を満たすほどの量では無かったが、一時的にでも腹の虫を抑える食べ物としては贅沢この上ないものであった。
電気湯沸しポットは友人との共有で、蓋付きの丼鉢と箸はそれぞれが用意した。
チキンラーメンを半分に割った量は丼鉢に入れた時に丁度良く、ポットの熱湯を注ぎ蓋をする。
そうして『三分』。
蓋を開けると何とも言えぬ香りが鼻をくすぐり、腹の虫が今一度ググー。
s-2017-08-29_125516湯を吸って膨らんだ麺とスープが程よく丼を満たしているのだ。
とりわけ秋の中間、冬の期末テストの時期に食べた夜食のチキンラーメンが美味かった記憶は今なお鮮明に残っている。
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夜食のチキンラーメンのことを思い出していると、鍋で煮るラーメンのことも思い出してしまった。s-2017-08-09_141011
母が亡くなった昭和39年(1964)の冬から半年ばかり私は祖父の家で寝起きすることとなった。
祖父の世話など家事全般を従兄妹のTちゃんがしてくれていたが、Tちゃんも叔母も二人が講義に出かける時は私が祖父の世話にあたった。 K兄ちゃんが仕事で遅くなる時、Yちゃんが定時に仕事を終えて帰ってきてくれた。
Yちゃん、Tちゃんなどと呼んでいるが私よりも随分の年長者である。
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そのYちゃんが時々作ってくれた夕食が鍋で煮るマルタイ・ラーメンというものだった。2017-08-29_100621
これは湯を沸かし、その鍋でラーメンを煮て、麺が柔らかくなったら粉末スープの素を入れるというもので、チキンラーメンとは作り方が違っていた。
インスタント・ラーメンが何だか懐かしく思い出される。
赤色-1
前回もインスタント・ヌードルについて書いたが、カップ麺と呼ばれるものを初めて食べたのは昭和59年頃のことだった。
関門トンネル門司側の和布刈神社あたりに設置されていた自動販売機で買ったカップヌードルs-2017-08-23_123224(シーフード)だった。家族でドライブ旅行した時、早朝に着いて朝食代わりに食べたことも思い出した。

※ 写真のカップ麺は家内が長兄宅へ向かった折に用意してくれたもの。



masatukamoto at 15:07│Comments(0)

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