September 12, 2017

喫茶店について《つづき》-1

屁理屈をこねるつもりなど毛頭ないが、やはり喫茶店を定義するのはムツカシイ。
大阪の学校ではクラスメートのN(故人)やMと共に新しく建った天王寺(民衆)駅2階のカーネーション・グリルでミルサンドウィッチ-1ク・ティーやレモン・ティーを飲む機会がよくあった。
この店はハンバーグステーキやオムライス、サンドウィッチやビールなども提供していたので喫茶店の範疇には入らないだろう。私流儀に言えばグリル=レストラン=洋食屋で、美味しいケーキと紅茶を楽しんだペコちゃんの心斎橋・不二家も喫茶店ではなく洋食店なのだ。
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私が最も多く喫茶店に通ったのは昭和39年(1964年)のことだ。
s-2017-09-11_160943この年は特別忙しい年であった。
体調思わしくなかった母親が当時堂島浜通りにあった大阪大学微生物研究所付属病院に入院したのが春のことだった。
秋10月10日に東京オリンピックが開催されたこの年度は生徒自治会々長を務めたのだった。
当時の阪大微研及び付属病院は堂島川を挟んで中之島と向き合う位置にあって古い陰気な建物であった。直ぐ西側には大阪大学医学部付属病院があったのだが、建物の外観を見ただけで新しいか古いか、明るいか陰気臭いかが歴然としていた。

※ 美術のF先生デザインの図を手拭いにして全校の職員・生徒に配布したのが上。(現物が無いので記憶をもとに描いてみた)
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母親が入院した頃の病院は完全看護ではなく家族が付き添うか個々に紹介所を通じて家政婦さんを雇うことになっており、親子3人家族の我が家は当然のこと家政婦さんを雇わざるを得なかった。
s-2017-08-14_154806私の母親は他人(ひと)のことを悪しざまに言ったり不平不満を口にする人では無かった。
父親も私もそんな母親のことはよく分かっていた。
その母親の様子が少し変だと気付き、病室を訪れるごとに様子を窺っていたところ寝たきり状態の母親がほったらかしにされている事実をつかんだのだった。勿論一度や二度ではない。父親と私が別々の時期に幾度も確認し、サボタージュが常態化していたので契約を破棄したのだった。
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しかし病院の家政婦さんは代わりの人を簡単に見つけることが出来るほど人数豊富では無かった。
日中は看護婦さんがいるので良いが、そのため父親と私が夜間交代で病室に詰めることになったのだ。
母親が亡くなった年末まで約半年間、父親が病室の長椅子に泊まる時、私は自宅で眠った。
私は朝起きて学校へ。そして学校帰りに病室へ行き、私が病室で泊まる。明くる朝、洗い物をボストンバッグに詰めて学校へ向かい、その日帰宅して洗濯機を回すという生活スタイルだった。
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そんな病室から学校へ行くには先ず大阪駅(梅田)まで歩いて行くのだが、その途中で3軒ほどモーニング・サービスを実施している喫茶店があり、そこで朝食を摂るのが私の決まりとなっていたのだ。
モーニング・サービスの内容はどの店も共通で、コーヒー、トースト、ゆで卵の三点セットであった。
この3軒の店は夕刻もコーヒーを主に提供していたので、私が思う喫茶店のイメージにピッタリであった。
そうした事情で私が最も多く喫茶店に通ったのがこの年だったのだ。
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もう少し続く・・・《つづき》-2 へ


masatukamoto at 10:34│Comments(0)

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