January 24, 2018

追 悼

詩人・森山久美子女史がお浄土への旅に出られた。
これまで物心にわたり頂いたご恩情に対し深く深く感謝申し上げる。
s-2018-01-21_101138《合掌》






詩人と書いたが、女史は生計を立てるという生業、つまり職業という意味合いでの詩人ではない。
女史の顔は実に様々である。
主婦であり事業家でもある。時に茶道、華道の師範を務め、箏を奏でるかと思えばイタリア民謡を口ずs-2018-01-21_095703さむと、実に多芸多才と評するに相応しい人であった。

そんな女史の詩は彼女の人柄を表すように『やさしさ』『おもいやり』といった慈愛に満ちた作品が殆どであると言って良いだろう。
彼女が生まれ育ってきた環境が彼女の人格形成に大きい役割を果たしてきたことは間違いない。
そんな彼女の人柄が想像出来る童謡詩のひとつを紹介しよう。
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  《かあさんネコ》

かあさんネコが
コネコをナメナメすると
あらったように
まっしろになる
したにせっけん かくしてるのかな

かあさんネコが
コネコをナメナメすると
きづぐち
すっかりなおっちゃう
したにおくすり かくしてるのかな
   ※ 『木曜手帖』(創刊30周年記念童謡集)より
s-緑色線-1
2011年4月に他界した詩人・島田陽子女史と森山女史は一つ違いである。
島田女史は豊中高女(大阪)、森山女史は第一高女(岡山)と学び舎は異なるが共に戦時という異常な状況下で青春期を過ごさざるを得なかったのだ。
s-2018-01-23_154030森山女史の作品に『生きているサイレンの音(青春の頃)』【別掲】がある。彼女は戦争や飢餓に関する報道がある度、女学生の頃の怖ろしい記憶とが重なり心が痛むとよく語っていた。
召集令状(赤紙)、出征、戦死公報、学徒動員、疎開、空襲、防空壕、焼野原、米穀通帳、食糧不足、栄養失調・・・
s-2018-01-23_153915戦時下、日々悲惨な状況と直面してきた彼女たちにとって、戦争に反対し、平和な世界を求める心は生半可なものではない。
女史の平和な世界を実現したいという願いはベトナムなどの留学生の里親として支援する行為としても顕れた。
9年前になるが彼女は夫と共に里子の娘、つまり孫の結婚式に招かれて米国加州へ飛んだ。彼女にとって最初で最後の海外旅行となってしまったが、里親としてしっかり努めてきたことを示す傍証のひとつと言えよう。
s-紫色線-1
年をとっても美人だったから若い頃はさぞかし・・・
女史曰く、「100人に求められようとも生涯添い遂げるのは自分が心から好いた人だけ』と。
s-2018-01-21_102332女史の夫君は旧制六高から京大への道を歩んだ。
旧制六高、いわゆるナンバースクールで岡山に設立された旧制高校だから県立第一高女の女史との出会いが烏城を舞台にあったのかどうか、これについては聞いたことがないので分からない。
分かっていることは、女史の夫君が100人より優れた面を持っていたということだろう。その先のことは聞けないままになってしまった。
s-桃色線-1
女史のお宅を訪れた折、私は彼女が供してくれるお茶が楽しみであった。
濃茶、薄茶、煎茶と、いつ訪れても茶と菓子が用意されており、私が茶を好むことを知っている彼女はs-2018-01-21_103410いつも「もう一服いかが?」と勧めてくれるのだ。
美味い茶を断る言葉など私は知らん。
そんな言葉を聞くことも、美味い茶を戴くことも出来なくなった。
これは全く寂しい限りであるが、今はただ女史が阿弥陀佛の膝下で安寧の日々を送られることを祈るばかりである。
s-青線-1


masatukamoto at 21:34│Comments(0)

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