イムジン を含む記事

May 02, 2017

一枚のCDから

ゴールデンウィークに入るまでの日々、私が留守番する機会が多くなりそうだと予想していたが、家内の予定キャンセルなどで普段とあまり変わらない時間を過ごしてきた。s-2017-04-13_144933
家内が買い物や散歩など所用で出かける際の留守番で昼間が主なのだが、友人たちとの食事会だと出かけたGW前の28日だけ一人夕食の留守番となった。
何かお手伝いをして、お駄賃などご褒美を戴いて喜ぶのは子どもたちだけではない。今や年寄りの仲間入りをしている私でも留守番の報酬?としてのお土産は嬉しいものなのだ。
s-2017-03-04_205859
この日のお土産は森山良子のCD『春夏秋冬』。
s-2017-05-02_181249収録曲は作詞作曲バラバラだが聴き良い歌ばかりで、何より彼女の澄んだ声が心地良く感じられた。
私が森山良子の歌声を初めて聴いたのは学生時代、京都・五条の友人の下宿でのことだった。その時に友人が彼女も同世代人であることも教えてくれたのだった。

♪ この広い野原いっぱい 咲く花を
  ひとつ残らず あなたにあげる
  赤いリボンの 花束にして
s-2017-03-04_210923s-2017-05-01_144339
当時ベトナム戦争が激化する中、私たち学生の思いは反戦運動やフォークソングで表していた面も。
そんな中、意味のワカランふざけた歌が出てきたと腹立たしく思ったのが『帰ってきたヨッパライ』というザ・フォーク・クルセダーズが歌うものだった。

♪ おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ
  おらは死んじまっただ 天国に行っただ
        (中 略)
  天国よいとこ 一度はおいで
  酒はうまいし ねえちゃんはきれいだ(後略)
s-2017-03-04_210542
フォーク・クルセダーズのメンバーは加藤和彦(龍大)・北山 修(府医大)・端田宣彦(同大)で、三君とも同じ京都に学ぶ同世代人といった親近感もあり、歌を何度か耳にしているうちにオモシロサを感じ彼らに興味を持つようになったのだった。
この後、彼らは『イムジン河』を歌うが、これは在日韓国・朝鮮人組織の対立の中でレコード化が中止になった事実があった。レコード会社は東芝だったが、所詮は儲け主義の企業だと私は思ったのだった。歌詞メロディーとも好める歌だったので大変残念に思ったものだった。
s-2017-03-04_205251
当時『イムジン河』について私はよく知らなかったのだが、
2007年の早春、北緯38度線に沿った非武装地帯を訪れた折、実際にイムジン河の流れを見て、歌詞の意味を深く知ることになったのだった。s-2017-04-07_163857
この時のことは『ソウル滞在記(April 12, 2007)』として拙ブログに書いている。(青字部分クリックでリンク)

食事会に出た家内がお土産に持ち帰ってくれたCDから随分昔の記憶が甦ってきた。
いつも思うのだが、記憶や発想の連鎖は思いもかけぬ方向へ際限なく続くのでとても面白いのだが、今はココまでにしておこう。
s-2017-04-18_172915食事会はイタリア料理店で開かれたのだとか。
帰宅した家内はアンティパストの品数が多く、しかも美味しかったものだからピッツァを少し頂いただけで満腹状態になってしまったのだと。
うーーん、羨ましい限りだ。







masatukamoto at 22:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

April 12, 2007

ソウル滞在 11

ある日突然に引かれた北緯38度線に沿ったDMZ(非武装地帯)によって南北の分断が行われて既に半世紀を経た朝鮮半島。

その日を境にして、北朝鮮にいた者達は南へ行くことも戻ることも出来なくなり、同様、韓国にいた者達も北へ行くことも帰ることも出来なくなってしまった。

夫婦、親子、兄弟、親戚であろうとも事実上の国境となってしまったDMZを越えることが出来なくなってしまったのである。

軍事的政治的な分断は、単に地理的な分断だけではなく『民族の分断』であったのである。

イムジン河』という歌を知っておられるだろうか。

作詞は朴 世泳(パッ・セヨン)、作曲は高 宗漢(コ・ジョンハン)であり、朴は朝鮮プロレタリアート文学運動に名を連ねたしジンである。

日本においては、何級か後輩のフォークソング・グループが紹介していたので歌詞もメロディーも記憶に残っている。

南北分断の悲哀を歌い上げたものであり、私の好きな歌の部類に入る。

日本語の歌詞は、

イムジン河 水清く
滔々(とうとう)と 流る
水鳥 自由に
群がり 飛び交うよ
我が祖国 南の地
思いは 遥か
イムジン河 水清く
滔々と 流る


私の記憶に違いが無ければ、このような歌である。

南北分断の意味も、『イムジン河』についても知識としては知っていたのだが、実は今回DMZに近い『臨津閣観光地』を訪れ、初めて『イムジン河』を見ることとなった。


下の写真は『イムジン河』に架かる鉄橋であり、南北統一観光地である『臨津閣観光地』の展望所から眺めた景色である。

現在列車は走っていないが、霞んで見える白い鉄橋を渡って行けば北朝鮮である。
1db5e7a3.jpg
イムジン河』を漢字で書くと『臨津江』。

韓国語読みで『イムジン・ガン』。

その『イムジン河』の堤防には鉄条網が張り巡らされ、韓国軍の兵士が常時警戒にあたっていた。

随所に設けられた警備所は撮影禁止。

鉄条網の向こうに広がる枯野の先に『イムジン河』が流れ、遠くに煙る山並みが北朝鮮になる。
c1f451cd.jpg
この『臨津閣観光地』から向こうは韓国軍の管理下にあり、一般人の立ち入りは禁じられている。

私が訪れた折、『イムジン河』は平たく白い氷を幾千枚となく川面に浮かべて流れていた。

河の両岸には冬の枯野が広がり、カモや鶴など幾種類も、何羽いるとも知れない鳥たちがエサを啄ばんだり大空を舞ったりしていた。

イムジン河』の詩が詠む通り、水は清く滔々と流れ、水鳥たちは鉄条網の及ばぬ大空を自由に群がり飛び交っていた。

彼らが望む『南北統一』、『祖国統一』の強い願いが、この『イムジン河』の詩に託されていることを実感したのである。


at 16:06|Permalink

March 25, 2007

ソウル滞在 5 板門店

朝鮮半島は、古来幾つかの国に分かれたり統一されたりの歴史を歩んできた。

人類の歴史区分では、人類が類人猿と文化的に分離区分できる基準を道具使用の可否に置いている。

簡単に言ってしまうと道具、つまり石器が用いられていたかどうかが区分の目安になるということである。

最古の石器を用いた時代を旧石器時代と呼んでいるが、この旧石器時代は前期(450万年~10万年前)、中期(10万年~4万年前)、後期(4万年~1万年前)と区分している。

朝鮮半島の北緯38度線付近の臨津江(イムジンガン)やその他の地域で旧石器時代前期に使用されたと考えられるチョッパーなどの打製石器が出土していることから、朝鮮半島には相当古い時代から人類がいたと想像できる。

私達がよく知る『高句麗』『新羅』『百済』といった国が朝鮮半島を分割統治していたのが三国時代で600年代以前である。

やがて『新羅』が朝鮮統一を果たすが、そこには陸続きの中国『唐』の影がちらついていた。

10世紀から14世紀頃まで『高麗』が朝鮮の統一国家となるが、1392年に『李朝』として新しい国家体制を敷くこととなる。

朝鮮半島の政治史の上では最も安定した時代であり、凡そ500年ばかり『李王朝』が続いた。

1400年前半には世宗(セジョン)王によってハングル文字が創られもした時代であった。

しかし、1592年の文禄の役、1597年の慶長の役と、豊臣秀吉の朝鮮侵略を受け、1627年、1636年には中国(清)の侵略を受けた。

もっとも1607年から1811年まで合計12回の朝鮮通信使の来日を受けるなど中国、オランダと共に我が国の鎖国時代にあって良好な時期もあった。

しかし、1866年のシャーマン号(アメリカ船籍)を皮切りに、フランス艦隊、アメリカ艦隊の執拗な侵略を受け、1876年には日本の軍艦・雲掲丸による意図的な侵略・武力脅迫行為によって『江華条約』(大日本国大朝鮮国修好条規)という朝鮮にとってははなはだ不平等な条約を締結させられてしまった。

こうした日本の行為のバックでは米英仏の3国も暗黙裡に了解するという弱肉強食の考え方が当時の世界にあった。

ちなみに、この『江華条約』は、日本がペリー率いるアメリカ艦隊の武力脅迫とも言える状況下で結ばされた『日米修好通商条約』と同様、いや、無関税貿易条項に至っては、一層ひどい差別条約であった。

これ以後、日本は政治経済面からの侵略を進め、日清、日露の戦争を経て、朝鮮を完全に植民地化し、武断政治によって朝鮮人の日本人化(同化・皇民化)を強制していった。

1910年8月22日の日本による朝鮮の完全併合から1945年8月15日までの35年間、朝鮮人は自分の国を取られ、言葉だけではなく、朝鮮に関わるあらゆることを無くしてしまったのである。

1945年8月15日、『ポツダム宣言』の受諾で太平洋戦争が終結。

朝鮮人民は解放され、朝鮮国内では建国独立の準備が進められていた。

しかし、第二次世界大戦が終了して、アメリカとソ連の間では戦後の世界支配を巡って微妙な関係になりつつあった。

トルーマン・ドクトリンやマーシャル・プランなど、アメリカはソ連の封じ込めを狙って、1945年9月7日にアメリカ軍は朝鮮に進駐。

10月10日にはアメリカ軍政長官による朝鮮の独立は認めないというアーノルド声明が発表され、以後アメリカをバックとする大韓民国と金日成率いる朝鮮人民軍の争いという国内紛争の勃発となった。

細かな事実を列挙する必要があるのだが、1950年6月25日、38度線において韓国軍と朝鮮人民軍が戦争状態に入ったのである。

韓国軍と国連軍(実質的には殆どアメリカ軍)の連合に対して、朝鮮人民軍と中国軍連合による戦争が、1953年7月27日の『休戦協定調印』で一旦停戦(休戦)したが、この戦争を『朝鮮戦争』と呼んでいる。

この『休戦協定調印』が行われたのが『板門店』なのである。






at 10:56|Permalink
記事検索
月別アーカイブ